日本バブル ~その4~

日本中が株価上昇に浮かれていた頃の1989年、大蔵省の操り人形と称されてきた澄田日銀総裁が退任しました。

 

そして、「株に手を出したことがない」と周りに自慢していた日銀生え抜きの三重野さんという人が日銀総裁に就任しました。

当時日銀は大蔵省の言いなりで、日銀総裁を大蔵省の人から選ぶのが普通でした。

そんな背景から、日銀でずっと働いてきた三重野さんが総裁に選ばれるのはすごい珍しいことでした。

この三重野日銀総裁・・・実は「バブルが日本経済に悪影響を与えている」と、ずっと一人で言い続けていた人でした。

というのも、土地の価格があまりに高くなりすぎて、普通のサラリーマンではとてもじゃないけど家を買うことが無理な状態になっていたからでした。

 

三重野さんは日銀総裁になると早速バブルをしずめようと・・・

今までの

 

金利をわざと低くすることでみんなが借金をしやすくして、株を買ったり不動産を買ったりしている人を応援する方針」

 

を180度変えて、1989年5月と12月、日銀は2回も金利を上げました。

金利を上げて借金の利息を増やすことで、株や不動産を借金してまで買っている人の目を覚まそうとしました。

 

ただ、金利を上げた直後は何の効果もなく、みんな株に夢中のままでした。

日経平均はその年の年末、史上最高値38915円97銭に達しました。

 

しかし、年が明けた1990年1月末になると、日経平均株価は最高値から2000円下落・・・

 

ついに雲行きが怪しくなってきました。

 

バブルを沈めた日銀

1990年3月、当時大蔵省銀行局長を務めていた土田正顕が、土地の価格を落ち着けるために、「企業にお金を貸す以上に不動産で儲けるためのお金を貸してはいけない」という内容の「総量規制*」と呼ばれる決まりを作りました。

 

*具体的に言うと「不動産向け融資の伸び率<総貸出の伸び率にしなければいけない」という内容です。

 

「これ以上不動産で儲けたいという企業への融資はしてはいけない」という総量規制という決まりのせいで、銀行はとっても困りました。

というのもお金の貸さないと、金利収入が増えないからです。

ただ大蔵省の総量規制には、実は抜け穴がありました。

というのも、(銀行はダメだけど)住宅向けにお金を貸す専門の「住宅金融専門会社」略して「住専」であれば、総量規制の対象外でした。

つまり、住専だけはいくら不動産にいくらお金を貸しても大丈夫だという抜け穴を(わざとかはわからないけど)残しておきました。

 

不動産にお金をこれ以上お金を貸かせなくなって困った銀行は、住専に自分たちの不動産融資をそのまま肩代わりさせました。

住宅金融専門会社、略して「住専」は、元々、1970年代に大蔵省が「日本の国民の住宅ローンを融資する」ことを目的に設立した金融機関でした。

「誰に貸して誰に貸さないか?」を判断する貸付ノウハウがないといけないので、大蔵省を先頭に大手銀行がそれぞれ共同出資&協力して設立しました。

三和銀行が出資した「日本住宅金融」、第一勧銀と富士銀行による共同出資で作られた「住宅ローンサービス」、興銀や日債銀による「第一住宅金融」、農協中央金庫と農協系の「JAバンク」、及び銀行7社による「協同住宅ローン」・・・などなど、日本の銀行がそれぞれ集まって合計8社の住専が設立されました。

 

と、こんな感じで、「銀行が貸していた不動産融資」を移したり、「銀行ではあまりお金を貸したくないけど、貸さないと色々まずい・・・」というお客さん(主にヤクザや暴力団)を住専に紹介していました。

ヤクザや暴力団をはじめ、実際にお金を返せないとわかっている融資の焦げ付いたお客さんを住専にすべて押し付けることで、銀行はうまく総量規制に(おもてむきは)対応していました。

ただ、住専がお金を貸している人は、銀行ではお金を貸せなかった人がかなり多かったということが、後々大きな問題になっていました。

 

ついに暴落する日本

日銀の三重野総裁が金利を上げる・・・

大蔵省が総量規制で不動産向けの融資を抑制・・・

これだけやっても1990年前半までは、不思議と不動産価格が下がりませんでした。

 

そこで三重野日銀総裁は、「不動産価格を20%下落させたい」と公言しました。

そこからさらに5回にわたって金利を上げて不動産価格を下げようとしました。

その結果、1990年8月には(銀行融資の金利の元になる数字である)公定歩合は6%に・・・。

 

銀行預金の金利も、普通預金で2%、定期預金は1988年に3.3%だったのが一気に6%まで上がっていきました。

(1番低い金利でお金を借りることのできる政府の借金の金利である)日本の長期国債利回りはなんと7%を超えました。

その時、株の平均配当利回りはたったの0.5%*。

 

*その価格で株を買って一年間株を持っていると、その時の株価の0.5%分の配当もらえるという意味です。

 

「普通に貯金していれば最低で2%、定期預金すれば何もしなくても6%もらえるのに、なんで株を買わないといけないの?」

 

と思う人がドンドン出てきました。

株式市場はここから一気に崩れだしてしまいました。

 

突然株価が下がりだしたのを見て、証券会社は信用取引の委託証拠金率*を70%から50%に引き下げました。

 

*お金を株を買いたい人にどれだけ貸すか?の割合。

信用取引といって、株は証券会社から借金をして自分の持っているお金以上に買ったり売ったりすることができるのです。

 

委託証拠金率70%なら100万円で約142万円(42万円は証券会社が貸す)委託証拠金率50%なら100万円あれば200万円まで株を買うことができます。

 

数日後には日経平均はさらに1200円下落しました。

大蔵省の圧力で、株価が回復するまで証券会社は、株式の発行だけではなく、転換社債ワラント債など「株価を下げる要因になる証券の発行」を停止すると発表しました。

にも関わらず、その直後日経平均は2年ぶりに3万円台を割り込み2万円台に・・・ついに東京証券取引所時価総額ニューヨーク証券取引所を下回りました。

 

1990年9月、日経平均がついに2万円を割り込む。

すると、大蔵省は証券会社に自己勘定、つまり証券会社自身のお金で株を買い支えるように圧力を掛けました。

証券会社は委託証拠金率をさらに30%に引き下げてもっとお客さんが借り入れして株を買いやすくしました。

大蔵省は生命保険会社に株式の売却を停止するように必死に声をかけると同時に、公的年金郵便貯金のお金を使って株を買ったりと、あの手この手で株価を維持しようとしていました。

 

株価と不動産価格が大きく下がりました。

バブルの崩壊が誰の目にも見て明らかになってくると、日本企業はバブル絶頂期に法外な値段で買い漁った「ロックフェラーセンター」をはじめとする海外資産を損失覚悟で安値でたたき売り始めました。

景気が悪化しはじめて、バブル時代に低金利で借り入れて行った、必要以上の設備投資の借金返済に追われて、日本企業は苦しむようになりました。

バブル時代に凄い含み益を抱え、銀行の資本金を水増ししていた株式持ち合いは、1990年になってから一気に含み損に変わりました。

 

資本金が大幅に減ったことで、銀行は「融資を急いで減らすか?」「国際営業の免許を取られるか?」の選択を迫られることになりました。

「資本金の12.5倍が融資できる上限である」という「BIS規制」のせいで、資本金が減ることで融資できる量が減ることで、貸しているお金を今すぐ返してもらう必要が出てきたからです。

 

1992年、ついに日経平均が1万4309円と底値へ。

大蔵省は、機関投資家に株式売却を思い止めさせるために、企業が株式による含み損が表面化しないように会計法を変更しました。

 

※銀行に低価法による株式の含み損の形状を1年先送りし、事業法人には株式の時価での評価変えを義務付けないことが定められた。

 

株価が大きく下がったことに加えて、1992年末には東京中心部の不動産価格は、バブル絶頂期のピーク時の価格から60%下落し、銀行からお金を借りて不動産で儲けようとしていた人たちの中から、お金を返せなくなって破産する人や企業が続出しました。

どの銀行も不動産を担保に巨額の融資をしていたので、不動産下落とともに銀行の不良債権問題(返してもらえなくなったお金をどうするのか?という問題)が表面化し始めました。

 

こうして

 

・株価下落によって自己資本が大幅に減少し、それに応じて融資を縮小する必要が出てきたこと

・不動産価格下落で、大量に貸しこんでいた不動産向け融資が回収できなくなったこと

・大蔵省による総量規制ですぐに不動産向け融資を減らさなければいけなかったこと

 

のトリプルパンチで金融業界は大ピンチに陥りました。

 

その結果、銀行による担保の追加や貸し剥がしが横行し、銀行が融資をすると約束していた企業も突然お金を借りれなくなり、従業員に給料を払えなくなってそのまま倒産する企業がいっぱい出てきました。

さらに突然お金を返せと超強引な手を使ってお金を返済させられる通称「貸し剥がし」がいっぱい起こりました。

 

「返済するのは来年の約束なのに・・・」

 

という企業も、その場で全額返済することを強制されて、担保に入れていた工場や不動産などを銀行に無理やり取り上げられてしまう企業が続出しました。

 

この「貸し剥がし」で、たくさんの中小企業が倒産に追い込まれました。

不動産や株を売っても借入金を返済できない企業はそのまま破産&倒産しました。

不動産価格があまりに値下がりしていたので、ほとんどの企業は不動産を売っても銀行からの借入金を返すことができませんでした。

こうして金融機関は無理やり貸し剥がしをしながら、巨額の不良債権(返してもらえない借金)を抱えることになりました。

借入金の返済を求められた企業は、返済を迫られたのがあまりに急だったので、無理やり株式や不動産を売って借入金を返済するしかありませんでした。

 

日本中が株や不動産を担保にお金を借りて、不動産や株を買っていたので値上がりしていました。

しかし、銀行が大蔵省による規制をきっかけに借金返済を迫ったので、その借金を返すために皆が一斉に株や不動産を売りに出しました。

 

こんなふうにますます株や不動産の価格は下がり続けました。

金融機関は不良債権額を小さく見せるために(「飛ばし」と呼ばれる方法などで)不正な会計操作や粉飾決算を行うことで、損したのをバレないようにしました。

 

営業免許がかかっていたので、株価下落で発生した株の含み損や不良債権表面化による資本金の減少を最小限にしようと必死でした。

あの手この手でごまかしながらも1995年8月、ついに日本で戦後初の預金している人が銀行から一気にお金を引き落としに殺到するという「取り付け騒ぎ」*が起こりました。

というのも銀行が破綻すると預金がしばらく引き出せなくなってしまいました。

 

*当時から「預金保護制度(ペイオフ)」と呼ばれる「金融機関が破綻しても預金は1000万円までは保護される」という制度がありました。

 

さらに経営不振に陥っていた東京のコスモ信用組合という金融機関で、600億円の預金が短時間で引き上げられました。

続いて大阪で大手の信用組合が破綻し、神戸で第二地銀兵庫銀行が戦後初めての上場銀行として破綻しました。

 

そして、ついに1995年末、金融機関が暴力団や自分たちではお金を貸せないようなお客さんを紹介していた住専(住宅金融専門各社)が破綻しました。

住専8社中7社に立入検査をしたところ、なんと6兆4000億円の損失が発覚しました。

これは実質、「融資総額の半分がお金を返してもらえず不良債権として焦げ付き&貸し倒れていた」計算です。

 

そして、翌年1996年・・・

不安になる人がさらに増えて取り付け騒ぎがもっと起こると、銀行が全部潰れました。

こんな不安に対処するために、政府は「今のペイオフの1000万円という上限を止めて、預金は政府が全額保証する」という制度に一時的に変更しました。

 

*ちなみに上限の1000万円というのは、郵便局に貯金できる限度額が1000万円に合わせるというのが理由でした。(今のゆうちょ銀行の預かり入れの限度額は1300万円)

 

さらに政府が6850億円の税金を住専に投入、救済することを決定しました。

この時、

 

「民間の金融機関はそのまま破綻していったのに、なんで住専を税金で助けるの?」

 

とみんな疑問に思いました。

 

これには理由がありました。

というのも、元々、住専は各銀行がそれぞれ出資して設立したものでした。

その中でJAバンク農林中央金庫と呼ばれる、農家の人たちのお金を預かっている銀行が住専にかなりの量のお金を貸しこんでいました。

住専はそのお金を、怖い人やお金を返せない人達なんかにお金を貸していました。

 

そんなこんなで、「住専が破綻すると、住専にお金を貸していた銀行もお金を返してもらえずに破綻してしまう」という状況になってしまいました。

すると、JAバンク農林中央金庫などに貯金をしている農家の人たちが、とても困ったことになります。

農家の人達は自民党にたくさん投票している団体なので、自民党からすると農家の人達を助けないと選挙で負けてしまいます。

なので、絶対助けないと自民党は困ってしまいます。

 

こうして当時首相であった橋本龍太郎さんは住専を助ける決断をしました。

その時、日本中から

 

住専に資金を貸し付けていた自民党政権の選挙基盤である農協を救済するためである上に、住専の損失の大半は暴力団絡みの不動産融資からくるものだった。」

 

と日本中から批判されました。

ただ、こうして住専を救って日本中から非難されたことが、大手金融機関や生命保険会社、特に借金の多かったゼネコンとよばれる建設業界の不良債権問題を先送りすることになったと言われています。

 

住専が破綻した翌年の1996年11月、地方銀行である阪和銀行が破綻し、政府は救済せずにそのまま破綻させることを決定させました。

さらに一年後の1997年11月、今度は証券会社である三洋証券が上場証券会社として戦後初めて倒産しました。

不動産向け融資を行っていた小会社の債務保証をしており、その煽りを受けて潰れてしまいました。

続けて規模の大きかった北海道拓殖銀行が破綻しました。

破綻直前まで配当も行っていて、自己資本も3000億円あったが、なぜか突然、破綻しました。

破綻後に調べてみると、なんと1兆2000億円の債務超過であることが発覚。

公開されていた情報と実際とでは、なんと1兆5000億円もの純資産の違いがありました。

 

さらに同じ月、4大証券の一つだった山一證券が損失を海外に飛ばしているとの噂がありアメリカの格付け機関ムーディーズが格下げしました。

このせいで金融機関が山一證券にお金を貸さなくなりました。

こうして営業することができなくなって、創業からちょうど100年目で自主廃業を発表、事実上、破綻しました。

調べてみると、2700億円の損失を隠していたことが発覚。負債総額は3兆2000億円と推定され、日本企業として過去最大の経営破綻となりました。

 

山一證券をはじめ破綻した銀行や証券会社は、「大蔵省や日銀の検査をしっかり受けていたしっかりとした金融機関である」とされていきました。

その巨大金融機関が、損失隠しや不正会計をしていて、さらに破綻していきました。

 

こんな状況の中、「会計監査法人よる監査を受けて公表した財務諸表でも、全く信頼できない」という事態になったために、一気に信用不安になってしまいました。

金融機関がつぎつぎに破綻していくにつれて、政治家だけではなく、日本の金融機関や官僚が、実はバブル時代に悪いことをしていたということが、一気にバレ始めました。

 

・大蔵省と大手金融機関が癒着していたことが発覚。ちょっとエッチな夜の接待を始めとする、凄い接待を繰り返していた大蔵省接待汚職事件

野村証券日興証券による、利回り保証をして会社の資金を運用する営業特金の損失補てんスキャンダル(大蔵省が黙認していたもの)

大和証券コスモ証券が、損失補てんによる損失がバレないように不正会計していたことが発覚し、両社の社長が辞任

・違法だったものの大蔵省の黙認を受けていたこともこの時期に発覚、野村證券社長が辞任。

・富士銀行で総額2600億円の定期預金証書偽造が発覚。

 

・・・etc

 

と連日、数え切れないくらい雑誌や新聞で汚職や不祥事がニュースになりました。

 

バブル時代は「あちこちで万札が飛び交っていた」「飲食店やタクシーではお釣りをもらわないのが普通」という話があちこちから出てくるほど、日本中が盛り上がっていました。

そんな中、数多くの実業家や個人投資家が彗星のごとく現れて、注目を集めていました。バブルが崩壊し、金融機関や中小企業が次々に破綻していきました。

そんな中、花火のようにド派手に散っていった個人投資家や実業家たち&事件のほんの一部を簡単に紹介していきます。

 

尾上縫さん:累計借入金額1兆1975億円!負債総額4300億円を抱え破産

日本最大の個人投資家として名が知られていた料亭経営者、尾上縫さん。

数多くの証券会社の営業マンが連日通いつめた伝説の個人投資家

バブル絶頂期には2270億円を金融機関から借り入れ、400億円近い定期預金持っていました。

借金の量がとにかく桁違いで、1990年には銀行からの借金の金利支払いだけで1日あたり1億7173万円だったと言われています。

バブル崩壊で株で大きく損失を出し、その穴埋めをするために金融機関からお金をだまし取るようになりました。

3420億円の偽造預金証書を大阪の信用組合の幹部から受け取り、それを担保に日本興業銀行から融資を受けていたことが発覚しました。

最終的に4300億円の負債を抱えて破産&逮捕のWパンチでした。

これに関連して、尾上縫に資金を提供していた日本興業銀行の会長が辞任する騒ぎになりました。

 

会社を乗っ取り恐喝。株価操作となんでもやった「光進

日本株式市場で仕手筋集団として有名だった「光進」。

いちばん有名な事件が、蛇の目ミシン恐喝事件と呼ばれる、会社乗っ取り&恐喝事件でした。

蛇の目ミシン工業という企業の大株主となり、自分の借金を、乗っ取った蛇の目ミシンとその子会社に債務保証をさせることで、合計936億円の損害を与えた事が発覚。

蛇の目ミシン恐喝事件として起訴されました。

露骨な株価操作も発覚し、執行猶予付きの有罪判決を受けました。最終的に「光進」のトップだった小谷光浩さんは、1200億円の負債をかかえ破産しました。

その時「光進」に特にお金を貸して利益を上げていた銀行として、三井信託銀行にも悪い意味で注目が集まりました。

 

ゴルフ会員権の暴落&普通のゴルフコース会員権で384億円

バブルが崩壊すると、これ以上ないほど盛り上がっていたゴルフ会員権の価格も暴落。

ゴルフ会員権指数はピーク時から半分近くに下落していきました。

さらに、会員権自体の売買が急激に減ったので、ゴルフ会員権の売買仲介業者の多くが倒産しました。

ゴルフの会員権を手に入れるには、入会金に加えて、預託金という「とりあえず今預かるけど、(一定期間後なら)会員から退会したい時に返します」というお金を払う必要がありました。

ゴルフ会員権は預託金込みで売買されていました。

ゴルフの会員権が仮にいらなくなった時、わざわざ退会して預託金を返してもらうよりも、転売すれば高値で売って儲かったからでした。

こんな背景からゴルフ場運営会社は、会員の脱退で預託金を返すこともほとんどありませんでした。

ただ、「バブルが崩壊、ゴルフ会員権の価格も暴落・・・株でも損して、銀行からは今すぐ金を返せと言われている・・・」そんなこんなでゴルフ会員権を持つ人達が一斉に、「会員を脱退するから預託金を返してくれ」って言い始めました。

この預託金還付請求の総額はなんと10兆円以上でした。

これを返すことができず、ゴルフコースの開発業者は次々と倒産しました。

というのも、ほとんどの業者が、会員から預かった預託金を株や不動産につぎ込んで損していて、預託金は残っていなかったからでした。

ゴルフ場破綻ニュースが次々に出てくる中、茨木カントリークラブというゴルフ場が2000人と限定していた会員権を6万人に販売していたことが発覚しました。

さらに、経済ヤクザとして有名だった暴力団「稲川会」の会長、石井進さんが「岩間カントリークラブの会員資格保証預り証」を担保に384億円融資を受けていた事も発覚しました。

岩間カントリークラブは会員制ではない普通のゴルフコースでした。

 

破産する絵画投機家たち

バブル時代、世界に飛び出して積極的に名画や美術品を買い占めた日本の美術品コレクターも、株価が下がりだした1990年に入ってから次々に破産していきました。

ルノワールというフランスの印象派の画家作品の買い占めを図った、特に当時有名だった沢田正彦さんは、1992年に関連会社7社で1750億円の負債を抱えて破産しました。

アスカインターナショナルという当時有名だった画廊であった1994年に閉鎖しました。

一時は総額300億円にのぼると評価された絵画コレクションは銀行などの債権者に全部持って行かれてしまいました。

 

銀行と上場企業が私物化された「イトマン事件」

当時上場していた大阪のイトマンという繊維会社が、絵画の偽造鑑定書、違法な株式の買い支え、暴力団絡みの事件の不動産取引など、数多くの不祥事を引き起こしたイトマン事件。

オイルショックで会社が傾いたことをきっかけに、当時イトマンにお金を貸していた住友銀行の役員だった河村良彦さんをイトマンに社長として送り込みました。

河村さんは住友銀行の社長とも仲良しで、住友銀行から1兆2000億円ものお金をイトマンによる不動産投資のために借りていました。

こうして借りてきたお金で、当時流行っていた絵画や美術品の売買に手を出すようになった上に、地上げ屋やゴルフ開発にまで手を広げるようになりました。

その過程で、合計3000億円ものお金が暴力団の懐に入っていったことが発覚しました。

さらに売買していた絵画や美術品を相場の2、3倍の価格でも平気で購入することで、とんでもない金額をイトマンに損させたことも明るみになりました。

1991年、河村さんを含む数名が特別背任罪で起訴されて、有罪判決を受けました。

イトマン事件に深く関わり巨額の融資をすることで、当時最高収益をあげていた住友銀行も日本中から避難を浴びました。

 

連鎖する破綻、度重なる汚職の果てに・・・

相次ぐ金融機関の破綻・・・

発覚する政治と官僚の汚職

下落し続ける株と不動産価格・・・

貸し剥がしと景気悪化により増える中小企業の倒産・・・

 

大蔵省が統計として公表していた金融機関の不良債権額を信じる人は少なく、その後もズルズルと長い時間をかけて株価も地価も下がり続けました。

日本の銀行部門は1992年~1999年までの累計で、65.7兆円、GDP比で13%もの貸し倒れ損失を被ったとされています。

 

1998年、大蔵省は金融監督庁の設置とともに民間金融機関に対する検査監督権限を、さらに2000年、行政改革により金融制度の調査・企画・立案権限を失うことになりました。

2001年、強過ぎる大蔵省の力を削ぐために行われたと言われる中央省庁再編で、大蔵省は財務省に改称しました。

かつて大蔵省が持っていた大きな権力は、金融庁財務省に二分されることになりました。

1992年10月26日付けのフィナンシャル・タイムズ紙で通産省高官は、バブル経済になってしまった原因を聞かれて、当時こう答えています。

 

「日本人は自信過剰になり、強気になりすぎていた。自身を持ちすぎないようにすることを学ばなければならない。日本人は規律正しいが、バブルの時期には成功に酔って規律を忘れていた」

 

大蔵省と日銀は1992年、大手銀行の不良債権額を8兆円と公表しましたが、株価や地価が反発するとの甘い期待から根本的な問題解決を先送りしました。

株の買い支えや財政出動による経済刺激策を行いましたが、株と不動産価格が回復することはなく、銀行の不良債権は深刻化しました。

1998年10月日経平均株価が1万3000円を割り込むころ、持ち株の含み損が日本の主要19行の合計で5兆円に達したと推定しました。

1990年代末には大都市の商業地価はバブルピーク時と比べて7割以上下落し、1998年に日本長期信用銀行日本債券信用銀行が国有化されました。

1999年春に主要銀行に対し公的資本が注入され、バブルピーク時からおよそ10年後、やっと金融機関は落ち着きを取り戻しました。

 

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