失われた20年

日本はバブル崩壊と同時に1973年より続いてきた安定成長期は終焉を迎え、その後20年以上にわたる長期不況「失われた20年」と呼ばれるデフレ時代を過ごすことになります。

 

失われた20年とは、日本経済が安定成長期終焉後である1991年(平成3年)3月から約20年以上にわたり低迷した期間(好景気時でも実質経済成長率が5%以下の低成長)です。バブル景気の後期から、日本では実体経済と資産価格のずれから経済に軋みが生じ始めていました。

1989年4月1日から消費税が導入され、さらに日本銀行による急速な金融引き締め方針や総量規制の失敗を端緒とした信用収縮などから、経済活動は次第に収縮に転じ、日経平均株価は1989年の最高値38915円87銭をピークに下落、翌1990年には23848円71銭にまで急落し、1990~1991年頃にバブルの崩壊を招きました。

 

日本銀行による急速な金融引き締め(総量規制)の事実上の失敗を端緒とした信用収縮と、在庫調整の重なったバブル崩壊後の急速な景気後退に、財務当局の失政、円高、世界的な景況悪化などの複合的な要因が次々に加わり不況が長期化しました。

銀行・証券会社などの大手金融機関の破綻が金融不安を引き起こすなど、日本の経済に大打撃を与えました。

これにより、1973年12月から続いていた安定成長期は17年3ヶ月間で終わりました。

多数の企業倒産や、従業員の解雇、金融機関を筆頭とした企業の統廃合などが相次ぎました。

この10年で本来通り成長していれば、100兆円得られたという試算もあります。

しかし、この期間中にも、1993年末頃から1997年前半頃まで、カンフル剤注入政策(景気回復政策)によるカンフル景気または、さざ波景気(景気拡張期)、その後のアジア金融危機不況(景気後退期)、1999年初頭から2000年春頃にかけてのITバブル景気(景気拡張期)と、その後のITバブル崩壊不況(景気後退期)で景気の波はありました。

ちなみに、その後の景気回復は、6年1ヶ月の長期間であったため、「いざなみ景気」と呼ばれましたが、低成長にとどまり、実感がなく、しかも一部地域を除いて本格的な好景気に至らなかったため、「だらだら陽炎景気」とも呼ばれていました。

その後はサブプライムローンをきっかけに大不況(世界金融危機不況、世界同時不況)に陥りました。

1992年から2009年までの18年間の実質経済成長率は平均0.7%、名目経済成長率は平均0.1%、GDPデフレーターは平均-0.7%となっています。

1990年以降、OECD加盟国のほとんどは2%以上の実質経済成長率、4%程度の名目経済成長率を達成しています。(2010年時点)

 

1998年末時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1714兆円と不動産全体の約6割を占めていました。

バブル崩壊後の「失われた20年」で株と不動産の損失は1500兆円とされています。

内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2456兆円をピークに、2006年末には約1228兆円となりおよそ16年間で約1228兆円の資産価値が失われたと推定されています。

1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少しています。

 

また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以後の価格下落で憂き目を見る例も少なくありません。

資産価格が下落したにもかかわらず固定資産税が高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り替えようとしても担保割れで果たせないなどです。

高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされたが、大半は自己責任として補償を得られずに終わっています。

 

有効求人倍率も1991年頃をピークに急落に転じ、求人数よりも求職者数が上回るようになり、大卒生の就職率も7割前後にまで下落しました。

就職氷河期と呼ばれるようになりました。

 

1990年後半から2000年代前半にかけて状況はさらに悪化し、1999年には有効求人倍率が0.48(パートを含まなければ0.39)になり、大卒生の就職率も6割前後にまで下がりました。

また、2.5%前後だった失業率も5%前後にまで上昇し、自殺者数も1998年から3万人を超えるようになりました。

2000年代中ごろ(いざなみ景気時)から、就職状況が好転し、有効求人倍率も1.06(パートを含まなければ0.94)にまで回復、大卒生の就職率も7割前後にまで回復、失業率も4%前後にまで回復しましたが、回復したのは都市が中心であり、地方では就職難が続きました。

アルバイトや派遣労働者といった非正規雇用率も増え続け、2005年では女性は全世代平均が51.7%と5割を超えた状態を維持、男性は15から24歳で44.2%と高い状態のまま、25から34歳も13.2%と2000年の5.6%と比べて2.5倍近く増えました。

 

2000年代終盤(世界金融危機後)には、再び就職状況が悪化、失業率は5%前後に上昇、2009年には有効求人倍率も0.47になり、大卒生の就職率も6割前後にまで落ち、再び就職氷河期となりました。

 

1990年代

日本経済は1990年代初頭にバブル崩壊を経験して以来、デフレーションに片足をいれた状態のまま、低いながらも名目経済成長は続いていました。

村山内閣で内定していた消費税の税率3%から5%への増税を橋本内閣が1997年4月に断行しました。消費税にはビルト・イン・スタビライザーの機能は備わっておらず、増税による景気悪化が懸念されていました。

翌年の1998年度には名目GDPは前年度比約マイナス2%の502兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込み、失業率は4.1%に達し、これ以降日本は本格的なデフレーションへ突入し、「失われた10年」を経験することになりました。

1999年度には、1997年度と比べ所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減となり、失業者数は300万人を超えました。さらに1997年には日本銀行法が改正され、内閣が日本銀行総裁の解任権を失うことになりました。

2000年までの「失われた10年」においては、歴代内閣において以下のようないわゆるケインズ政策が取らました。

 

1992年8月 - 総合経済対策(事業規模10.7兆円)

1993年4月 - 新総合経済対策(13.2兆円)

1993年9月 - 緊急経済対策(6.2兆円)

1994年2月 - 総合経済対策(15.3兆円)

1995年4月 - 緊急・円高経済対策(7兆円)

1995年9月 - 経済対策(14.23兆円)

1998年4月 - 総合経済対策(16兆円)

1998年11月 - 緊急経済対策(24兆円)

1999年11月 - 経済新生対策(18兆円)

 

1995年には、兵庫銀行が破綻、これは戦後初の銀行倒産でした。

その後、1998年12月までに北海道拓殖銀行日本長期信用銀行日本債券信用銀行、証券会社では三洋証券、山一證券が経営破綻しました。

 

2000年代

いざなみ景気(2002年~2008年)の期間は緩やかに景気回復していましたが、成長率の低さにより実感が伴わず、完全に景気は改善されなかったため、いざなみ景気の期間も1980年代後半と比較すると好景気ではないとして扱う人もいました。

そのため、失われた10年と2000年代以降の経済を併せて「失われた20年」と呼ばれるようになりました。

インターネット・バブルとその崩壊による景気の変動ののち、2001年4月、小泉旋風に乗って小泉純一郎内閣総理大臣に就任すると、民間から経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に指名し、以後2006年9月まで、いわゆる小泉=竹中改革(聖域なき構造改革)を推進しました。

この間、日本銀行は2001年3月19日から2006年3月9日まで第一次量的緩和を推進しました。また大規模な為替介入も行っていました。

この影響もあり、円ドル為替レートは弱含みに推移し(1ドル110円から120円)、輸出が増大し、リーマン・ショック直前まで緩やかな景気回復が続きました。これはいざなみ景気と呼ばれました。

小泉政権下で銀行の不良債権処理を進めて完了し、大企業は業績が改善しました。

処理成長率は2%前後で維持し続け、日経平均株価も上昇しました。

しかし、日経平均株価は20000円を超えることはなく、2007年7月9日の18261円98銭が最高でした。

これは、1990年代の平均よりも低い値でした。

GDPデフレーターに関しても、1990年に100%を切りデフレへと陥って以降、そこから回復できませんでした。

景気回復期間は、2002年2月からリーマン・ショック直前の2008年2月まで73ヶ月に及び、「戦後最長の景気回復」とも呼ばれていましたが、実質GDP成長率は、年1%を超えることができず、また労働者の賃金が上昇しなかったため、「実感なき景気回復」とも呼ばれていました。

 

2010年代

失われた20年は、主に1991年時点から20年間を指すことが多いですが、2011年以降も経済低迷の状態は変化しておらず、一部では人口減少などを背景に悪化の傾向にありました。

また日本の通貨すなわち日本円の立ち位置も変わり、2015年8月の通貨別決済シェアでは人民元が2.79%と、日本円の2.76%を逆転し、ドル、ユーロ、ポンドに次ぐ「第4の国際通貨」の座を奪われました。

これにより2015年、中国の人民元は第3の主要通貨としてIMFに承認され、日本円はこれを下回る第4位となりました。

さらに2015年8月財務省は、国債や借入金、政府短期証券を合わせた「国の借金」の残高が、同年3月末時点で1053兆3572億円に達したと発表しました。

2015年、S&P、フィッチなどの国際的な格付け会社は「日本国債の信用力の低下傾向を今後2~3年で好転させる可能性は低い」などとして、相次いで国債の格下げを行い、中国や韓国以下の評価となりました。

 

1992年から2002年までの長期停滞の原因について、研究機関や学者などが多くの研究成果を発表しています。停滞の具体的な要因として、主に3つの要因仮説が挙げられています。

 

・構造要因

企業投資の歴史的な停滞

 

不良債権の先送り

資産価格の著しい低下(資産デフレ)による、バランスシートの悪化

大手金融機関(山一證券、三洋証券、北海道拓殖銀行日本長期信用銀行日本債券信用銀行など)の経営の失敗

 

・マクロ経済政策の失敗

日本銀行の金融緩和の不徹底や物価動向に逆行する金融政策の実施(速水優総裁の主導によるデフレーション下のゼロ金利政策解除等)

財務当局の失政(1989年の消費税導入、景気が回復基調に転じた時点での消費税率引き上げ、社会保険の給付引き締めなど)

 

その他には以下の要因仮説が挙げられています。

・企業の債務返済による財政支出乗数効果低下

・世界において相次いだ経済危機の余波(1992年のポンド危機、1994~1995年のメキシコ危機、1997年 のアジア通貨危機

 

企業においては、1990年代後半からはデフレーションに対応する形で、優良企業では有利子負債の圧縮が進展し、高度経済成長末期から続いていた日本企業の過剰なレバレッジ体質が抜本的に転換され、財務体質が改善されました。

この企業行動は当時においては停滞の要因であったものの、財務基盤が強化された強力な企業群が形成されました。

流動資産を抱え込み過ぎて資本効率の低下した企業も生まれ、流動比率が高すぎる場合には遊休資産が多いとみなされ、買収の標的になるとの指摘もなされました。

労働面では、他の世代に比較して世代人口の多い1970年代生まれが社会に出る時期であったにもかかわらず、企業が採用を削減したことから就職難が深刻化し、就職氷河期と呼ばれる状況が続いていました。

 

長期にわたる不景気がデフレーションを誘発し、労働者の給与は減少傾向をたどり、非正規雇用によるサービス業従事者が増加しました。

金融行政においては護送船団方式の行き詰まりが表面化しました。

1991年以降2003年度までで181行の銀行が倒産し、1992~2002年度まで預金保険機構が救済金融機関に援助した資金の総額は25兆円となりました。

 

1995年

8月 兵庫銀行

 

1996年

3月  太平洋銀行

11月21日  阪和銀行

 

1997年

10月14日  京都共栄銀行

11月3日  三洋証券

11月17日  北海道拓殖銀行

11月24日  山一證券

11月26日  徳陽シティ銀行

 

1998年

5月15日  みどり銀行

5月22日  福徳銀行

5月22日  なにわ銀行

10月23日  日本長期信用銀行

12月13日 日本債券信用銀行

 

1999年

4月11日  国民銀行

5月22日  幸福銀行

6月12日  東京相和銀行

8月7日  なみはや銀行

10月2日  新潟中央銀行

 

2000年

8月6日 石川銀行

 

2002年

3月8日 中部銀行

 

2003年

9月 足利銀行

 

三洋証券はコール市場にてデフォルトを起こしたため、無担保コール市場が大混乱に陥りました。

これにより、金融市場は連鎖的な信用収縮を招き、事態は一気に金融恐慌の様相を呈していきました。

日本長期信用銀行に対して税金約7兆9000億円を投入後、外国投資組合が10億円で落札するという異常な状態になっていました。

金融当局や政治が正常なら税金投入案件を外国企業に売却するのは認めないのが通常であり、金融当局や政治がほとんど機能していない状態でした。

逆ザヤを抱えた保険会社の中には、更生特例法を申請し破綻する会社が現れました。

 

大証券会社(野村證券山一証券日興証券大和証券)は、株取引で損失を被った一部の顧客に対して「損失補填」を行なったため、証券取引等監視委員会設立のきっかけとなりました。

政府は日銀の公定歩合の急激な引き上げに続き、不動産の総量規制、地価税の創設、固定資産税の課税強化、土地取引の届け出制、特別土地保有税の見直し、譲渡所得の課税強化、土地取得金利分の損益通算繰り入れを認めないなどの対策を打ち出していきました。

 

銀行への資本注入のための公的資金枠は、1999年12月には70兆円にまで積み増すことが決定されました。

2002年度の全国銀行の不良債権の処分による損失の累計額は、81兆円5000億円に達しました。

不良債権処理にともなった銀行の損失累計額は、1992~2002年度末で94兆円となりました。

全銀行の不良債権の純損失の総額は100兆円という規模となりました。

日本のバブル崩壊で発生した不良債権は、約200兆円と言われています。

2001年の日本興業銀行調査部によると、バブルの後始末としての不良債権処理は、1997年には終了していたとされています。

 

バブル崩壊後、損失補填、利益供与、巨額損失の隠蔽など金融機関の不祥事が相次いで発覚しました。

政府は当初、大手金融機関は破綻させない、という方針を取っていましたが、1995年頃より「市場から退場すべき企業は退場させる」という方針に転じ、不良債権の査定を厳しくして経営状態の悪い金融機関も破綻・再生する処理にかかりました。

この流れで1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次ぎました。

 

長銀はバブル期に不動産・リース等、新興企業に積極的な融資を行いましたが、バブル崩壊後はイ・アイ・イ・インターナショナルへの多額の融資の焦げ付きを中心とする不良債権を抱え経営不振に陥り、1998年10月に制定された金融再生法の下で破綻認定され、国有化されました。

日債銀バブル崩壊で膨らんだ不良債権を飛ばしで処理していましたが、1998年12月の金融調査で債務超過と認定され、国有化されました。

 

山一證券は1989年末をピークに株価が下落するのに伴い一任勘定で発生した損失を顧客に引き取らせずに、簿外損失として引き受けて、いずれ株価の上昇で損失が解消するのを待ったが、銀行からの支援を失って1997年11月に自主廃業を選択しました(実際には破産宣告を受けて解散)。

証券会社にバブル採用された社員たちは、入社数年で会社が倒産し再就職もままならない状態に陥ったものが多かったのです。

 

個人向け融資機能の弱かった金融機関が住宅資金需要に応えて設立した住宅金融専門会社住専)でしたが、バブル期前後には、金融機関自身が住宅ローン市場に参入し、住専は本来のターゲットである住宅ローン以外の不動産事業に傾斜しました。

優良な債権を銀行等が占有したため、住専はリスクの大きい物件に傾斜せざるを得なかったとの指摘もありました。

 

バブル崩壊後は融資先が破綻するケースに加え、担保としていた土地も値下がりして融資の回収が見込めない不良債権が増加し、住専7社のうち6社は破綻しました。

破綻に際しては、住専に多額の資金を融資していた農林系金融機関や銀行を保護するために公的資金が注入されました。

 

一方、案件として小粒であり従来は銀行から重視されていなかった個人相手の住宅ローンが、バブル崩壊後の不況期の中ではリスクが低いことから注目を浴び、それに注力する銀行も現れました。

 

バブル崩壊に伴う事業の縮小、経営不振に加えて、プロジェクトにかかる代金支払いの保証をしていたことから、一気に負債額が増加し、経営悪化が表面化したゼネコンが多数ありました。

ゼネコンの破綻は雇用不安につながり社会の不利益となるので公的資金を投入して救済すべきとする意見が出る一方で、従前の経営の難点を指摘して「市場から退場すべき企業は退場させるべし」とする論調も声高になされました。

また、下請けの会社が大手ゼネコンから仕事を受注するに際して、従前は手形払い等、信用を前提にした決済を行っていたものを、現金払いで決済するよう要求することもありました。

 

金融機関が、経営に問題がない企業に対しても貸し出しに慎重になり、新たな融資を断ることを「貸し渋り」、既存の融資を引き揚げたりすることを「貸し剥がし」といいます。

 

総量規制に加えて、BIS規制、株価の下落が、金融機関の貸出枠に枷をはめて、金融機関はそれまで大きく広げていた貸し出し枠を自己資本比率を満たすよう縮小する必要に迫られました。

これに応じて、過剰に貸し付けていた融資を、半ば強引とも見える手法で引き上げる貸し剥がしも頻発し、景気の悪化に輪をかけました。

 

突然に全額一括返済を求めるほかに、それまで定常的に融資を繰り返してきたものを一方的に停止するのをはじめとして、「今後も融資を継続するために」「内部処理の都合で」「新規・追加融資を纏めて一つの枠にするために」などの説明をもって融資を一旦引き上げたところで前言を翻して融資に応じない、などです。

貸し剥がしにより運転資金を絶たれて倒産に追い込まれる企業も続出しました

 

融資の約束を反故にされたとして訴訟に持ち込んでも、多くの場合は次の融資は口約束でなされるため、決定的証拠に欠け、また、銀行の融資の判断が優先されることが大半で、結局泣き寝入りするケースが多かったのです。

その他に、故なく、あるいは些細な理由をもって預金と融資を相殺して引き揚げる、など借り手側から見て強引な手法が採られることもありました。

また、新規の融資にも消極的な姿勢を示し、貸し渋りとの批判もありました。

ただし、銀行に融資を申し込んで断られるとすぐに貸し渋りだという企業経営者が多いですが、財務内容が悪かったり、過去に会社が倒産し保証協会が求償権を持っていたりするような場合に融資ができないことをもって貸し渋りだというのは早計でした。

貸し渋りというのはあくまで、健全で財務内容に問題のない企業が、一方的な金融機関の都合で融資を受けられない状態のことをいいます。

日銀短観によると、銀行の貸し渋りは1997年半ばから1998年に観測されましが、1993~1996年、1999~2000年には観測されていません。

貸し渋りによる倒産は、1998年の1年間で約760件となりました。

 

金融機関では融資先の中に不良債権と区分されるものが増えるに従い、引当金(貸倒引当金)を積み増す必要に迫られました。

収益の中から、引当金として確保するべき部分が増えるに伴い、金融機関の経営を圧迫しました。

金融庁の発足と、金融検査マニュアルによる金融機関検査の厳格化により、いっそう貸倒引当金を積みます必要性が増大しました。

尚、景気の回復に伴い不良債権であったものが正常債権に区分される様になると、これらの引当金は利益に組み入れられ、2005年以降の銀行の利益拡大の一因となっています。

 

日本の労働分配率は、1990年頃は60%程度の水準でしたが、バブル崩壊以降上昇し、2000年時点では約70%となっていました。

大学卒業者に対する求人数はバブル景気崩壊の1991年(約84万人)をピークに1997年(約39万人)まで減少しました。

また、高校卒業者に対する求人倍率厚生労働省調査)も1992年の3.34倍をピークにその後は低下を続け、2003年には1.27倍と過去最低を記録しました。

 

1991年から1992年は、人口が多い1970年代前半生まれが就職する時期、1970年代後半生まれが小学6年生から高校生、1980年代前半生まれが小学生でした。

このために、競争が激化し、雇用のアメリカ化が推進されたために、就職が極めて困難になりました。

俗に言う就職氷河期の到来です。

就職できなかった多くの若者はフリーターやニートとなり、就職氷河期世代と呼ばれ、彼らの生活・雇用の不安定さ、社会保障の負担が充分できずにセーフティーネットから外れ困窮する状態に陥るなど、大きな社会問題となっています。

 

このため、小渕政権から小泉政権にかけての2000年代初頭には記録的な就職氷河期となり、大手企業の「若干名採用」「採用ゼロ」も珍しくありませんでした。

失業率は、1999年頃からは経営の悪化からリストラを名目とした大規模な解雇も頻発するようになり、戦後最悪を記録し全国平均で5パーセントを超えるに至りました。

中途採用については、抑制がピークに達した1999年には有効求人倍率が0.5倍を割り込みました。

 

特に、バブル直前期に民営化された電電公社(現NTT)や日本国有鉄道(現JR)などは、法律によって新規採用ができず、再開された後も余剰人員の削減のためにまとまった退職者が出るまで採用の抑制が行われました。

その結果、採用を抑えられた時期に入社した世代とその上の世代では社員の数に極端な差が生じることになり、各社の社員の年齢構成はいびつな状況となりました。

 

また学歴神話の崩壊により、バブル崩壊以前は、一定の水準の評価を受けている大学を卒業していれば、その大学に見合った就職先が事実上保障されていたといっても過言ではありませんでしたが、極端な採用抑制のために難関大学の卒業生でさえ非常に困難な就職活動を強いられました(学歴難民)。

また、本来であれば採用した新卒に対し、企業内で一定の期間教育を施して戦力として育て上げ、それから現場で業務に就かせることが普通でしたが、業績の悪化を受けて教育の余裕もなくなり、新卒に対して「即戦力」たる能力を求める風潮が現在でも大半の企業で続いています。

1990年代から2000年代に段階的に進んだグローバル化と、それに伴う国際競争の激化も、こうした風潮に拍車をかけています。

 

この時期は一転して公務員の人気が非常に高くなりました。

民間企業の倒産やリストラが相次ぎ新規採用が絞られるなか、「景気の動向に左右されにくい」という公務員の特徴がバブル期とは全く逆の捉えられ方をされ、その堅実性から公務員を希望する学生が増加しました。

他方で長引く不況下でも失業の心配がほとんど無く、地方公務員に限っては収入減少の憂き目にも遭わず、年金や社会保険など福利厚生も充実した公務員が、民間と比べて優遇されていると批判する世論も高まっていました。

 

堅実な公務員職を希望する学生が増加する一方で、不況に伴う税収減少をうけた財政難や、公務員改革に伴う人員削減の影響で地方公共団体は新規採用を縮小したため、公務員は非常に狭き門と化しました。

あまりの就職難のために、大卒者(特に中堅校以下の大卒者)がその学歴を隠し、高卒(あるいは短大卒)の採用枠で公務員に採用された例もあり、2000年代半ば以降神戸市や大阪市、さらには横浜市などで次々と同様の行為が発覚して問題となっています。

 

規制緩和の一環として不況下の経費削減、殊に固定費削減のため企業の業務を担う人員や、業務そのものを企業本体から切り離し外部から調達する方法も取られるようになりました。

人材派遣業会社から人員を調達して企業の業務に当たらせることで雇用を流動化させられました。

企業にとって派遣は保険や年金等の社会保障を省略できること、また、定年までの雇用の義務が無いことから、年金に対する負担がないこと、景気に応じて雇用の調整弁として有用なこと、そして、能力に応じた賃金を支払えば良く、年功序列に応じた高賃金の支払いを免れる利点があります。

 

失われた20年の就職氷河期に曲がりなりにも雇用が確保されたのは、これら非正規雇用による賃金切り下げの効果なのは疑いがありません。

しかし、2007年、その総数は全就業者の1/3を占めるまで増加し、バブル期以上といわれるまでに企業が利益を出しても非正規雇用者の待遇は変わっていません。

利益を上げても「(国際)競争力の確保」を名目・大義名分として、人材・設備への投資を極力行わず、株主への配当もせず、結果として内部留保がひたすらに積み上げられていく企業さえ見られています。

 

何歳になっても、また何年勤めてもいつ解雇されるか判らないため、子供を作るどころか結婚さえするわけにいかない非正規雇用の若者(特に男性)が増加したと言われています

 

2000年代に小泉政権が誕生し、国民に事態の深刻性を知らせ、聖域なき構造改革が始まりました。

その改革はある程度の効果をもたらし、小泉政権後半期に景気は徐々に回復することができました。

しかし、2008年のリーマン・ショックによって始まった世界的経済不況は、日本に再び莫大な打撃を与えました。

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