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ダジブロ

お金 、健康 、芸能、スポーツ、漫画 、オリジナル小説について記事を書いています!

ダジリの2024年10大ニュース

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さて、皆さん毎年お待ちかねのこの時期がやってきました!

 

 

ダジリの2024年10大ニュース!!!

 

今年1年は一体どんなことがあったのでしょうか?

一年の締めくくりで今年も発表したいと思います!

では早速10位から発表します!

 

 

第10位 一人で函館旅行に行く。

人生初の函館

温泉、観光名所、名物といろいろ満喫してきました!

 

 

第9位 一人で大阪旅行に行く。

こちらも人生初の大阪旅行。

食い倒れ、観光など色々してきました!

一人でしか行けないようなところにも行ってきました。

 

 

第8位 お腹、腰の脂肪吸引をする。

2年前、顔の脂肪吸引をしたのですが、今回はお腹、腰の脂肪吸引をしました!

半年経過してだいぶ、お腹が引き締まってきました!

 

 

第7位 生え際の植毛する。

生まれつき、M字の生え際を治すために、その部分を最近、植毛しました!

1年後が楽しみです!

 

 

第6位 マンションの役員に7年ぶりに選出。

久しぶりに保有マンションの総会に出席し、管理組合の理事会に選出されました。

前回は理事長でしたが、今回は監事に選出されました。

 

 

第5位 CAプレミアムホームページ刷新を手伝う。

CAプレミアムという女性は現役CAのみしか登録できないマッチンングサービスのホームページ刷新を手伝い、10月に新しくなりました!

www.w-premium.jp

 

 

第4位 ネットショップ開業。

30、40代男性美容専門のネットショップを開業しました!

いつまでも若々しくいたいメンズは是非、ご覧ください!

dajiri.jimdofree.com

 

 

第3位 ベトナム人交流アプリPremium開発に携わる。

ベトナムを中心としたSNS兼リアルイベント開催アプリ「Premium」の開発に携わりました!

1年間の開発を経て、いよいよ今月リリースです!

vietnam-premium.asia

 

第2位 フジテレビ地上波放送「セ婚ド!」出演。

2024/11/19 19~21時にフジテレビ系列全国地上波で放送された「セ婚ド!」に「マサヒロ」として出演しました!

撮影は京都で2泊3日で行われ、大変でしたが楽しかったです!

www.fujitv.co.jp

 

第1位 ベンチャー企業に転職する。

4年半務めた会社を辞め、某ベンチャー企業の製品開発部に転職しました!

これから地球のエネルギー問題を解決していきたいと思います!

 

 

以上、ダジリの2024年10大ニュースでした。

皆さんは今年一年どんなことがありましたでしょうか?

今年はきっかけの年で、来年は一気に突っ走りたいと思います!

2025年もダジブロをよろしくお願いいたしますm(__)m

皆様、良いお年をお迎えくださいm(__)m

日本バブル経済 ~その8~

 

 

隠ぺい体質の金融機関

金融機関は不良債権額を小さく見せるために(「飛ばし」と呼ばれる方法などで)不正な会計操作や粉飾決算を行うことで、損したのをバレないようにしました。

 

営業免許がかかっていたので、株価下落で発生した株の含み損や不良債権表面化による資本金の減少を最小限にしようと必死でした。

あの手この手でごまかしながらも1995年8月、ついに日本で戦後初の預金している人が銀行から一気にお金を引き落としに殺到するという「取り付け騒ぎ」*が起こりました。

というのも銀行が破綻すると預金がしばらく引き出せなくなってしまいました。

 

*当時から「預金保護制度(ペイオフ)」と呼ばれる「金融機関が破綻しても預金は1000万円までは保護される」という制度がありました。

 

さらに経営不振に陥っていた東京のコスモ信用組合という金融機関で、600億円の預金が短時間で引き上げられました。

続いて大阪で大手の信用組合が破綻し、神戸で第二地銀の兵庫銀行が戦後初めての上場銀行として破綻しました。

 

そして、ついに1995年末、金融機関が暴力団や自分たちではお金を貸せないようなお客さんを紹介していた住専(住宅金融専門各社)が破綻しました。

住専8社中7社に立入検査をしたところ、なんと6兆4000億円の損失が発覚しました。

これは実質、「融資総額の半分がお金を返してもらえず不良債権として焦げ付き&貸し倒れていた」計算です。

 

そして、翌年1996年・・・

不安になる人がさらに増えて取り付け騒ぎがもっと起こると、銀行が全部潰れました。

こんな不安に対処するために、政府は「今のペイオフの1000万円という上限を止めて、預金は政府が全額保証する」という制度に一時的に変更しました。

 

*ちなみに上限の1000万円というのは、郵便局に貯金できる限度額が1000万円に合わせるというのが理由でした。(今のゆうちょ銀行の預かり入れの限度額は1300万円)

 

さらに政府が6850億円の税金を住専に投入、救済することを決定しました。

この時、「民間の金融機関はそのまま破綻していったのに、なんで住専を税金で助けるの?」とみんな疑問に思いました。

 

これには理由がありました。

というのも、元々、住専は各銀行がそれぞれ出資して設立したものでした。

その中でJAバンクや農林中央金庫と呼ばれる、農家の人たちのお金を預かっている銀行が住専にかなりの量のお金を貸しこんでいました。

住専はそのお金を、怖い人やお金を返せない人達なんかにお金を貸していました。

 

そんなこんなで、「住専が破綻すると、住専にお金を貸していた銀行もお金を返してもらえずに破綻してしまう」という状況になってしまいました。

すると、JAバンクや農林中央金庫などに貯金をしている農家の人たちが、とても困ったことになります。

農家の人達は自民党にたくさん投票している団体なので、自民党からすると農家の人達を助けないと選挙で負けてしまいます。

なので、絶対助けないと自民党は困ってしまいます。

 

こうして当時首相であった橋本龍太郎さんは住専を助ける決断をしました。

その時、日本中から

 

「住専に資金を貸し付けていた自民党政権の選挙基盤である農協を救済するためである上に、住専の損失の大半は暴力団絡みの不動産融資からくるものだった。」

 

と日本中から批判されました。

ただ、こうして住専を救って日本中から非難されたことが、大手金融機関や生命保険会社、特に借金の多かったゼネコンとよばれる建設業界の不良債権問題を先送りすることになったと言われています。

 

金融機関の破綻

住専が破綻した翌年の1996年11月、地方銀行である阪和銀行が破綻し、政府は救済せずにそのまま破綻させることを決定させました。

さらに一年後の1997年11月、今度は証券会社である三洋証券が上場証券会社として戦後初めて倒産しました。

不動産向け融資を行っていた小会社の債務保証をしており、その煽りを受けて潰れてしまいました。

続けて規模の大きかった北海道拓殖銀行が破綻しました。

破綻直前まで配当も行っていて、自己資本も3000億円あったが、なぜか突然、破綻しました。

破綻後に調べてみると、なんと1兆2000億円の債務超過であることが発覚。

公開されていた情報と実際とでは、なんと1兆5000億円もの純資産の違いがありました。

 

さらに同じ月、4大証券の一つだった山一證券が損失を海外に飛ばしているとの噂がありアメリカの格付け機関のムーディーズが格下げしました。

このせいで金融機関が山一證券にお金を貸さなくなりました。

こうして営業することができなくなって、創業からちょうど100年目で自主廃業を発表、事実上、破綻しました。

調べてみると、2700億円の損失を隠していたことが発覚。負債総額は3兆2000億円と推定され、日本企業として過去最大の経営破綻となりました。

 

山一證券をはじめ破綻した銀行や証券会社は、「大蔵省や日銀の検査をしっかり受けていたしっかりとした金融機関である」とされていきました。

その巨大金融機関が、損失隠しや不正会計をしていて、さらに破綻していきました。

 

こんな状況の中、「会計監査法人よる監査を受けて公表した財務諸表でも、全く信頼できない」という事態になったために、一気に信用不安になってしまいました。

金融機関がつぎつぎに破綻していくにつれて、政治家だけではなく、日本の金融機関や官僚が、実はバブル時代に悪いことをしていたということが、一気にバレ始めました。

 

・大蔵省と大手金融機関が癒着していたことが発覚。ちょっとエッチな夜の接待を始めとする、凄い接待を繰り返していた大蔵省接待汚職事件

・野村証券と日興証券による、利回り保証をして会社の資金を運用する営業特金の損失補てんスキャンダル(大蔵省が黙認していたもの)

・大和証券とコスモ証券が、損失補てんによる損失がバレないように不正会計していたことが発覚し、両社の社長が辞任

・違法だったものの大蔵省の黙認を受けていたこともこの時期に発覚、野村證券社長が辞任。

・富士銀行で総額2600億円の定期預金証書偽造が発覚。

 

・・・etc

 

と連日、数え切れないくらい雑誌や新聞で汚職や不祥事がニュースになりました。

 

バブル時代は「あちこちで万札が飛び交っていた」「飲食店やタクシーではお釣りをもらわないのが普通」という話があちこちから出てくるほど、日本中が盛り上がっていました。

 

破綻した実業家や個人投資家

そんな中、数多くの実業家や個人投資家が彗星のごとく現れて、注目を集めていました。バブルが崩壊し、金融機関や中小企業が次々に破綻していきました。

そんな中、花火のようにド派手に散っていった個人投資家や実業家たち&事件のほんの一部を簡単に紹介していきます。

 

尾上縫さん:累計借入金額1兆1975億円!負債総額4300億円を抱え破産

日本最大の個人投資家として名が知られていた料亭経営者、尾上縫さん。

数多くの証券会社の営業マンが連日通いつめた伝説の個人投資家。

バブル絶頂期には2270億円を金融機関から借り入れ、400億円近い定期預金持っていました。

借金の量がとにかく桁違いで、1990年には銀行からの借金の金利支払いだけで1日あたり1億7173万円だったと言われています。

バブル崩壊で株で大きく損失を出し、その穴埋めをするために金融機関からお金をだまし取るようになりました。

3420億円の偽造預金証書を大阪の信用組合の幹部から受け取り、それを担保に日本興業銀行から融資を受けていたことが発覚しました。

最終的に4300億円の負債を抱えて破産&逮捕のWパンチでした。

これに関連して、尾上縫に資金を提供していた日本興業銀行の会長が辞任する騒ぎになりました。

 

会社を乗っ取り恐喝。株価操作となんでもやった「光進」

日本株式市場で仕手筋集団として有名だった「光進」。

いちばん有名な事件が、蛇の目ミシン恐喝事件と呼ばれる、会社乗っ取り&恐喝事件でした。

蛇の目ミシン工業という企業の大株主となり、自分の借金を、乗っ取った蛇の目ミシンとその子会社に債務保証をさせることで、合計936億円の損害を与えた事が発覚。

蛇の目ミシン恐喝事件として起訴されました。

露骨な株価操作も発覚し、執行猶予付きの有罪判決を受けました。最終的に「光進」のトップだった小谷光浩さんは、1200億円の負債をかかえ破産しました。

その時「光進」に特にお金を貸して利益を上げていた銀行として、三井信託銀行にも悪い意味で注目が集まりました。

 

ゴルフ会員権の暴落&普通のゴルフコース会員権で384億円

バブルが崩壊すると、これ以上ないほど盛り上がっていたゴルフ会員権の価格も暴落。

ゴルフ会員権指数はピーク時から半分近くに下落していきました。

さらに、会員権自体の売買が急激に減ったので、ゴルフ会員権の売買仲介業者の多くが倒産しました。

ゴルフの会員権を手に入れるには、入会金に加えて、預託金という「とりあえず今預かるけど、(一定期間後なら)会員から退会したい時に返します」というお金を払う必要がありました。

ゴルフ会員権は預託金込みで売買されていました。

ゴルフの会員権が仮にいらなくなった時、わざわざ退会して預託金を返してもらうよりも、転売すれば高値で売って儲かったからでした。

こんな背景からゴルフ場運営会社は、会員の脱退で預託金を返すこともほとんどありませんでした。

ただ、「バブルが崩壊、ゴルフ会員権の価格も暴落・・・株でも損して、銀行からは今すぐ金を返せと言われている・・・」そんなこんなでゴルフ会員権を持つ人達が一斉に、「会員を脱退するから預託金を返してくれ」って言い始めました。

この預託金還付請求の総額はなんと10兆円以上でした。

これを返すことができず、ゴルフコースの開発業者は次々と倒産しました。

というのも、ほとんどの業者が、会員から預かった預託金を株や不動産につぎ込んで損していて、預託金は残っていなかったからでした。

ゴルフ場破綻ニュースが次々に出てくる中、茨木カントリークラブというゴルフ場が2000人と限定していた会員権を6万人に販売していたことが発覚しました。

さらに、経済ヤクザとして有名だった暴力団「稲川会」の会長、石井進さんが「岩間カントリークラブの会員資格保証預り証」を担保に384億円融資を受けていた事も発覚しました。

岩間カントリークラブは会員制ではない普通のゴルフコースでした。

 

破産する絵画投機家たち

バブル時代、世界に飛び出して積極的に名画や美術品を買い占めた日本の美術品コレクターも、株価が下がりだした1990年に入ってから次々に破産していきました。

ルノワールというフランスの印象派の画家作品の買い占めを図った、特に当時有名だった沢田正彦さんは、1992年に関連会社7社で1750億円の負債を抱えて破産しました。

アスカインターナショナルという当時有名だった画廊であった1994年に閉鎖しました。

一時は総額300億円にのぼると評価された絵画コレクションは銀行などの債権者に全部持って行かれてしまいました。

 

銀行と上場企業が私物化された「イトマン事件」

当時上場していた大阪のイトマンという繊維会社が、絵画の偽造鑑定書、違法な株式の買い支え、暴力団絡みの事件の不動産取引など、数多くの不祥事を引き起こしたイトマン事件。

オイルショックで会社が傾いたことをきっかけに、当時イトマンにお金を貸していた住友銀行の役員だった河村良彦さんをイトマンに社長として送り込みました。

河村さんは住友銀行の社長とも仲良しで、住友銀行から1兆2000億円ものお金をイトマンによる不動産投資のために借りていました。

こうして借りてきたお金で、当時流行っていた絵画や美術品の売買に手を出すようになった上に、地上げ屋やゴルフ開発にまで手を広げるようになりました。

その過程で、合計3000億円ものお金が暴力団の懐に入っていったことが発覚しました。

さらに売買していた絵画や美術品を相場の2、3倍の価格でも平気で購入することで、とんでもない金額をイトマンに損させたことも明るみになりました。

1991年、河村さんを含む数名が特別背任罪で起訴されて、有罪判決を受けました。

イトマン事件に深く関わり巨額の融資をすることで、当時最高収益をあげていた住友銀行も日本中から避難を浴びました。

 

連鎖する破綻、度重なる汚職の果てに・・・

相次ぐ金融機関の破綻・・・

発覚する政治と官僚の汚職

下落し続ける株と不動産価格・・・

貸し剥がしと景気悪化により増える中小企業の倒産・・・

 

大蔵省が統計として公表していた金融機関の不良債権額を信じる人は少なく、その後もズルズルと長い時間をかけて株価も地価も下がり続けました。

日本の銀行部門は1992年~1999年までの累計で、65.7兆円、GDP比で13%もの貸し倒れ損失を被ったとされています。

 

1998年、大蔵省は金融監督庁の設置とともに民間金融機関に対する検査監督権限を、さらに2000年、行政改革により金融制度の調査・企画・立案権限を失うことになりました。

2001年、強過ぎる大蔵省の力を削ぐために行われたと言われる中央省庁再編で、大蔵省は財務省に改称しました。

かつて大蔵省が持っていた大きな権力は、金融庁と財務省に二分されることになりました。

1992年10月26日付けのフィナンシャル・タイムズ紙で通産省高官は、バブル経済になってしまった原因を聞かれて、当時こう答えています。

 

「日本人は自信過剰になり、強気になりすぎていた。自身を持ちすぎないようにすることを学ばなければならない。日本人は規律正しいが、バブルの時期には成功に酔って規律を忘れていた」

 

 

大蔵省と日銀は1992年、大手銀行の不良債権額を8兆円と公表しましたが、株価や地価が反発するとの甘い期待から根本的な問題解決を先送りしました。

株の買い支えや財政出動による経済刺激策を行いましたが、株と不動産価格が回復することはなく、銀行の不良債権は深刻化しました。

1998年10月日経平均株価が1万3000円を割り込むころ、持ち株の含み損が日本の主要19行の合計で5兆円に達したと推定しました。

1990年代末には大都市の商業地価はバブルピーク時と比べて7割以上下落し、1998年に日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が国有化されました。

1999年春に主要銀行に対し公的資本が注入され、バブルピーク時からおよそ10年後、やっと金融機関は落ち着きを取り戻しました。

 

おわり

 

日本バブル経済 ~その7~

 

 

バブルの沈めた日銀

1990年3月、当時大蔵省銀行局長を務めていた土田正顕が、土地の価格を落ち着けるために、「企業にお金を貸す以上に不動産で儲けるためのお金を貸してはいけない」という内容の「総量規制*」と呼ばれる決まりを作りました。

 

*具体的に言うと「不動産向け融資の伸び率<総貸出の伸び率にしなければいけない」という内容です。

 

「これ以上不動産で儲けたいという企業への融資はしてはいけない」という総量規制という決まりのせいで、銀行はとっても困りました。

というのもお金の貸さないと、金利収入が増えないからです。

ただ大蔵省の総量規制には、実は抜け穴がありました。

というのも、(銀行はダメだけど)住宅向けにお金を貸す専門の「住宅金融専門会社」略して「住専」であれば、総量規制の対象外でした。

つまり、住専だけはいくら不動産にいくらお金を貸しても大丈夫だという抜け穴を(わざとかはわからないけど)残しておきました。

 

不動産にお金をこれ以上お金を貸かせなくなって困った銀行は、住専に自分たちの不動産融資をそのまま肩代わりさせました。

住宅金融専門会社、略して「住専」は、元々、1970年代に大蔵省が「日本の国民の住宅ローンを融資する」ことを目的に設立した金融機関でした。

「誰に貸して誰に貸さないか?」を判断する貸付ノウハウがないといけないので、大蔵省を先頭に大手銀行がそれぞれ共同出資&協力して設立しました。

三和銀行が出資した「日本住宅金融」、第一勧銀と富士銀行による共同出資で作られた「住宅ローンサービス」、興銀や日債銀による「第一住宅金融」、農協中央金庫と農協系の「JAバンク」、及び銀行7社による「協同住宅ローン」・・・などなど、日本の銀行がそれぞれ集まって合計8社の住専が設立されました。

 

と、こんな感じで、「銀行が貸していた不動産融資」を移したり、「銀行ではあまりお金を貸したくないけど、貸さないと色々まずい・・・」というお客さん(主にヤクザや暴力団)を住専に紹介していました。

ヤクザや暴力団をはじめ、実際にお金を返せないとわかっている融資の焦げ付いたお客さんを住専にすべて押し付けることで、銀行はうまく総量規制に(おもてむきは)対応していました。

ただ、住専がお金を貸している人は、銀行ではお金を貸せなかった人がかなり多かったということが、後々大きな問題になっていました。

 

ついに暴落する日本

日銀の三重野総裁が金利を上げる・・・

大蔵省が総量規制で不動産向けの融資を抑制・・・

これだけやっても1990年前半までは、不思議と不動産価格が下がりませんでした。

 

そこで三重野日銀総裁は、「不動産価格を20%下落させたい」と公言しました。

そこからさらに5回にわたって金利を上げて不動産価格を下げようとしました。

その結果、1990年8月には(銀行融資の金利の元になる数字である)公定歩合は6%に・・・。

 

銀行預金の金利も、普通預金で2%、定期預金は1988年に3.3%だったのが一気に6%まで上がっていきました。

(1番低い金利でお金を借りることのできる政府の借金の金利である)日本の長期国債利回りはなんと7%を超えました。

その時、株の平均配当利回りはたったの0.5%*。

 

*その価格で株を買って一年間株を持っていると、その時の株価の0.5%分の配当もらえるという意味です。

 

「普通に貯金していれば最低で2%、定期預金すれば何もしなくても6%もらえるのに、なんで株を買わないといけないの?」

 

と思う人がドンドン出てきました。

株式市場はここから一気に崩れだしてしまいました。

 

突然株価が下がりだしたのを見て、証券会社は信用取引の委託証拠金率*を70%から50%に引き下げました。

 

*お金を株を買いたい人にどれだけ貸すか?の割合。

信用取引といって、株は証券会社から借金をして自分の持っているお金以上に買ったり売ったりすることができるのです。

 

委託証拠金率70%なら100万円で約142万円(42万円は証券会社が貸す)委託証拠金率50%なら100万円あれば200万円まで株を買うことができます。

 

数日後には日経平均はさらに1200円下落しました。

大蔵省の圧力で、株価が回復するまで証券会社は、株式の発行だけではなく、転換社債、ワラント債など「株価を下げる要因になる証券の発行」を停止すると発表しました。

にも関わらず、その直後日経平均は2年ぶりに3万円台を割り込み2万円台に・・・ついに東京証券取引所の時価総額がニューヨーク証券取引所を下回りました。

 

1990年9月、日経平均がついに2万円を割り込む

すると、大蔵省は証券会社に自己勘定、つまり証券会社自身のお金で株を買い支えるように圧力を掛けました。

証券会社は委託証拠金率をさらに30%に引き下げてもっとお客さんが借り入れして株を買いやすくしました。

大蔵省は生命保険会社に株式の売却を停止するように必死に声をかけると同時に、公的年金と郵便貯金のお金を使って株を買ったりと、あの手この手で株価を維持しようとしていました。

 

株価と不動産価格が大きく下がりました。

バブルの崩壊が誰の目にも見て明らかになってくると、日本企業はバブル絶頂期に法外な値段で買い漁った「ロックフェラーセンター」をはじめとする海外資産を損失覚悟で安値でたたき売り始めました。

景気が悪化しはじめて、バブル時代に低金利で借り入れて行った、必要以上の設備投資の借金返済に追われて、日本企業は苦しむようになりました。

バブル時代に凄い含み益を抱え、銀行の資本金を水増ししていた株式持ち合いは、1990年になってから一気に含み損に変わりました。

 

資本金が大幅に減ったことで、銀行は「融資を急いで減らすか?」「国際営業の免許を取られるか?」の選択を迫られることになりました。

「資本金の12.5倍が融資できる上限である」という「BIS規制」のせいで、資本金が減ることで融資できる量が減ることで、貸しているお金を今すぐ返してもらう必要が出てきたからです。

 

1992年、ついに日経平均が1万4309円と底値へ

大蔵省は、機関投資家に株式売却を思い止めさせるために、企業が株式による含み損が表面化しないように会計法を変更しました。

 

※銀行に低価法による株式の含み損の形状を1年先送りし、事業法人には株式の時価での評価変えを義務付けないことが定められた。

 

株価が大きく下がったことに加えて、1992年末には東京中心部の不動産価格は、バブル絶頂期のピーク時の価格から60%下落し、銀行からお金を借りて不動産で儲けようとしていた人たちの中から、お金を返せなくなって破産する人や企業が続出しました。

どの銀行も不動産を担保に巨額の融資をしていたので、不動産下落とともに銀行の不良債権問題(返してもらえなくなったお金をどうするのか?という問題)が表面化し始めました。

 

こうして

 

・株価下落によって自己資本が大幅に減少し、それに応じて融資を縮小する必要が出てきたこと

・不動産価格下落で、大量に貸しこんでいた不動産向け融資が回収できなくなったこと

・大蔵省による総量規制ですぐに不動産向け融資を減らさなければいけなかったこと

 

のトリプルパンチで金融業界は大ピンチに陥りました。

 

その結果、銀行による担保の追加や貸し剥がしが横行し、銀行が融資をすると約束していた企業も突然お金を借りれなくなり、従業員に給料を払えなくなってそのまま倒産する企業がいっぱい出てきました。

さらに突然お金を返せと超強引な手を使ってお金を返済させられる通称「貸し剥がし」がいっぱい起こりました。

 

「返済するのは来年の約束なのに・・・」

 

という企業も、その場で全額返済することを強制されて、担保に入れていた工場や不動産などを銀行に無理やり取り上げられてしまう企業が続出しました。

 

この「貸し剥がし」で、たくさんの中小企業が倒産に追い込まれました。

不動産や株を売っても借入金を返済できない企業はそのまま破産&倒産しました。

不動産価格があまりに値下がりしていたので、ほとんどの企業は不動産を売っても銀行からの借入金を返すことができませんでした。

こうして金融機関は無理やり貸し剥がしをしながら、巨額の不良債権(返してもらえない借金)を抱えることになりました。

借入金の返済を求められた企業は、返済を迫られたのがあまりに急だったので、無理やり株式や不動産を売って借入金を返済するしかありませんでした。

 

日本中が株や不動産を担保にお金を借りて、不動産や株を買っていたので値上がりしていました。

しかし、銀行が大蔵省による規制をきっかけに借金返済を迫ったので、その借金を返すために皆が一斉に株や不動産を売りに出しました。

 

こんなふうにますます株や不動産の価格は下がり続けました。

日本バブル経済 ~その6~

 

 

ブラックマンデー

バブル時代はこんな時代背景でしたが、1987年10月に起こったブラックマンデーと呼ばれる世界的な株価暴落で、一番下げが浅かったのが日本市場でした。

アメリカのダウ工業平均株価が31%下げたのに対し、なんと日経平均だけは19%の下げで済んだことが大きかったと言われています。

というのも前述の通り、ブラックマンデーの翌日、大蔵省は当時の4大証券会社、野村証券、大和証券、山一証券、日興証券のそれぞれの代表を呼びつけて、「NTT株の相場を支え、日経平均株価を21000円以上に維持するように」と要請したからです。

 

この大蔵省の要請に応えるために、証券会社は素人のお客さんに電話をかけて株の買うように煽りました。

その中でもいっぱい手数料を払ってくれる大口のお客さんには、前にも増して最低利回りと損失補償を約束して株を買うように説得していました。

 

大蔵省は、証券会社に加えて投資信託にも「株を買い支えないなら年末の投信募集を許可しない」と圧力をかけて、投資信託にも株の買い支えに参加させました。

いうのも、その1ヶ月後に政府によるNTT株の第2回目の売り出しが迫っていました。

そのときに株価が低いと困るので、特に機関投資家にNTT株の売りを自粛するようにも圧力を掛けていたのです。

その努力が実って、大蔵省はNTT株を一株255万円で売り出すことに成功、5兆円の収入を得ました。

1988年1月、大蔵省は日本企業や銀行が株価下落で損失が表面化することを恐れて、予定していた会計基準の変更を実質1年遅らせることで、企業の株価維持に最大限努力しました。

 

会計基準の変更

大蔵省は、会計基準を、株や不動産を「買ったときの値段と時価を比べて低い方の価格を評価額にする」という「低価法」に変更する予定でした。

しかし、このブラックマンデーでの暴落を見て、低価法の導入を1ヶ月遅らせることで、株価が大きく下がった1987年度は、企業が株価下落による評価損を決算に計上しなくても済むようにしました。

さらに大蔵省は生命保険会社による株の買い支えを促すため、「企業の株や不動産の売買で出た利益に対する税金を安くします」という「特金」の枠を広げて、日本中が株を買い支えるように、あの手この手で頑張りました。

そんなこんなで、世界的な株価暴落のわずか数ヶ月後には、日経平均は暴落前の水準を取り戻した上に、なんと新高値をつけるようになりました。

 

この大蔵省の株価維持工作、当時は世界同時不況回避を防いだ立役者したとして、海外から高い評価を得ていました。

ただこのせいで「大蔵省は決して株価を下落させない」「大蔵省は投資家に損はさせない」と投資家に思わせることになり、株価上昇神話を生むことになりました。

そんなこんなで1988年以降、株価の上昇スピードはより異常なものになっていました。

 

1987年10月に起きたブラックマンデーの後、ある証券会社の社長は、こんな風に言っていました。

日本が相場暴落を乗り越えられたのは、「日本がコンセンサス社会で、一つの方向に動くのを好むからだ」と答え、大蔵省の官僚は非公式の場で、「株式市場は為替市場よりも相場操縦の方が簡単だ」と自慢していました。

ダーイースタンエコノミックレビューという海外の雑誌では、当時東京証券取引所の事を次のように書いていました。

 

「東京証券取引所は世界で最も冷笑的で、投機的で、相場を操縦しやすい市場である」

 

世界的に有名なファンドを運営していた有名な投資家ピーター・リンチは日本市場についてこのようなコメントをしていました。

 

「1986年に私が初めて日本を訪れた時に、日本市場は操作されているという印象を受けた。

 

中略

 

その後のある有名な日本の証券マンとのミーティングでは、日本の株価がどの程度操作されているのか、についてヒントを得た。

その銘柄の名前を私は覚えていないが、彼はある注目銘柄について説明してくれた。

 

頻繁に数字を述べていたが、私にはそれが売上高なのか利益の数字なのか理解できなかった。その点を質問した所、なんと彼は一年後の株価の話をしていたのであった。

一年後に調べてみたら、彼はまさしく正しかった。」

 

株式市場が20%以上上昇していたにもかかわらず、投資信託などは平均利回りが4%にも満たなかったからです。

株価は驚くほど上昇しましたが、個人投資家の多くは証券会社の手数料稼ぎの道具にされていました。

 

バブル時代に汚職まみれた政治とお金のスキャンダル時代でした。

一般的に政治家は、議席を維持するために、若手議員でも年間4000万~1億円。

中堅代議士以上になると少なくとも1億円から2億円は掛かると言われていました。

1989年当時、日本で国会議員として1議席維持するのには、4億円は掛かるとイギリスでは分析されていました。

政治家さんたちにとってお金はとっても大事なものです。

選挙で自分への投票を集めるのにも、派閥を作るにも何をするにもとにかくお金が掛かります。

そんなこんなで政治家さんたちのほとんどが、お金が喉から手が出るほど欲しかったのです。

なんせ、政治家に落選、つまりお金がないと無職になってしまうので・・・

 

リクルート事件

バブル時代は特に政治家さん達がお金のことで汚職にまみれていました。

政治家さん達がいかに株式市場に深く関わっているかが暴かれたのが、1988年に発覚したリクルートコスモスの未公開株を巡るスキャンダルでした。

リクルートの創業者、江副 浩正さんが、政界への影響力を持つために、政治家や官僚などに広くリクルートの不動産子会社の株をばらまいていました。

このスキャンダルは戦後最大のスキャンダルで、閣僚、代議士、事務次官、NTT元会長、リクルート関係者12人が訴えられて有罪判決を受けました。

 

総理を歴任した中曽根さん、後に内閣総理大臣になる竹下登さんと宮澤さんをはじめ、外務大臣や内閣官房長官を任されてきた大物政治家の安倍晋太郎さん(現安倍晋三内閣総理大臣の父)、日本経済新聞社社長なども株を譲渡されていたことが発覚しました。

事件発覚から1年もたたず、当時大蔵大臣だった宮澤喜一さんと法務大臣は辞任しました。

 

当時内閣総理大臣だった竹下登さんは、リクルートコスモス株や政治献金などを含め、計1億5000万円受け取っていたことを認めて、首相の代理人で会った青木秘書は自殺する事態に・・・この事件をキッカケに、日本中が政治不信になってしまいました。

 

日経平均株価の下落

世紀の大スキャンダルで日本中が政治不信になっていく中、1989年の終わりに近づくと、日経平均株価はついに4万円の大台に近づいていきました。

年初来で27%、1980年代初めと比較すると5倍近く上昇していた計算になります。

当時の配当利回りはわずか0.38%、株価収益率は1987年のピーク時の90倍からは下がりましたが、それでも80倍の水準でした。

株を買うための借金である信用取引残高は約9兆円と、バブルが始まる前の1980年と比べるとなんと8倍にまで膨れ上がりました。

 

利下げの実施後の1988年度補正予算で当時の大蔵大臣であった宮沢喜一は公共事業拡大に踏み切りました。

また、急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日銀は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採りました。

そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招きました。

 

1989年4月1日、消費税(税率3%)が導入されました。

このとき、便乗値上げが起きました。

中曽根税制改革により法人税が42%から30%へ、所得税最高税率が70%から40%に引き下げられるとともに物品税も撤廃され、可処分所得はその分増大して土地や株式の購入に向かったため、土地価格や株価が高騰しました。

中曽根内閣による大都市圏内の土地容量(容積率)の規制緩和、東京湾横断道路(東京湾アクアライン)建設プロジェクトの推進、当時の鈴木俊一東京都知事による「第二次東京都長期計画」による東京臨海副都心構想の具体化による東京発の不動産取引が活発化しました。

 

日本中が株価上昇に浮かれていた頃の1989年、大蔵省の操り人形と称されてきた澄田日銀総裁が退任しました。

そして、「株に手を出したことがない」と周りに自慢していた日銀生え抜きの三重野さんという人が日銀総裁に就任しました。

当時日銀は大蔵省の言いなりで、日銀総裁を大蔵省の人から選ぶのが普通でした。

そんな背景から、日銀でずっと働いてきた三重野さんが総裁に選ばれるのはすごい珍しいことでした。

この三重野日銀総裁・・・実は「バブルが日本経済に悪影響を与えている」と、ずっと一人で言い続けていた人でした。

というのも、土地の価格があまりに高くなりすぎて、普通のサラリーマンではとてもじゃないけど家を買うことが無理な状態になっていたからでした。

 

三重野さんは日銀総裁になると早速バブルをしずめようと・・・

今までの「金利をわざと低くすることでみんなが借金をしやすくして、株を買ったり不動産を買ったりしている人を応援する方針」を180度変えて、1989年5月と12月、日銀は2回も金利を上げました。

金利を上げて借金の利息を増やすことで、株や不動産を借金してまで買っている人の目を覚まそうとしました。

 

ただ、金利を上げた直後は何の効果もなく、みんな株に夢中のままでした。

日経平均はその年の年末、史上最高値38915円97銭に達しました。

しかし、年が明けた1990年1月末になると、日経平均株価は最高値から2000円下落・・・

ついに雲行きが怪しくなってきました。

日本バブル経済 ~その5~

 

 

バブル就職

就職もバブル時代には凄まじかったです。

有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録し、同年の大卒最高値は2.86倍になりました。

この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われました。

社内では同世代の人数が多く、社内での競争が激しくなり、一方で、就職直後にバブル崩壊を受けて業務が削減され、それぞれの社員が切磋琢磨する機会も減りました。

また、以後の採用が長年に亘って細ったことから「後輩」「部下」が居らず、長く現場の最前線に立たされ昇進もままならない者も多かったのです。

 

民間企業が好景気を受けた好業績を糧に、更に営業規模を拡大したり、経営多角化を行うために新卒者向けの募集人数を拡大し、学生の獲得競争が激しくなりました。

多く企業が学生の目を惹き付けることを目的にテレビで企業広告を行い、立派な企業パンフレットを作成・配布して学生の確保に走った他、青田買いの一環として、都市部の大学生が主宰するイベント系サークルやそれらが企画するイベントへの協賛を行いました。

 

学生の確保に成功した企業が内定者を他社に取られないようにするため、研修等と称して国内旅行や海外旅行に連れ出し他社と連絡ができないような隔離状態に置く、いわゆる「隔離旅行」を行った他、「内定を辞退した学生に人事担当者が暴行した」というような都市伝説まで囁かれるようになりました。

これらの背景には急激な経済膨張・業務拡大のため、夜中2時過ぎまでの残業や月に1~2日程度しか休みが取れないといった事態がざらになるなどの深刻な人手不足があり、早急に人員を確保することが急務でした。

体育会系の学生は我慢強く体力があり、上下関係による人脈で後輩学生を入社させやすいというので企業からは人気がありました。

特に証券会社は、現場が人手不足だったので、OBを通じて学生に食事を振る舞うなどしてまで入社させました。

 

しかし、この時代には全ての大学生が誰しも一流企業への就職が楽であったわけではなく、就職人気上位30社程度の一流企業に限定すると「指定校制度」の存在と短期大学を含め大学進学率が同世代の3割程度であったことに留意する必要があります。

すなわち主に恩恵を得たのは東京圏の国立・上位私立大学、及び京阪神圏の国立大学でした。

したがって一流企業は満遍なくあらゆる大学からの採用を増加させたのではなく、バブル景気以前より長年にわたって存在していた指定校に在学する学生の採用を大幅に増加させたことがこの時期の売り手市場の傾向でした。

その意味でインターネット等でのエントリー制度が主流となった現在の方が、従来の指定校漏れ大学からの一流企業就職にも少ないながら可能性が出てきたともいえます。

もっとも当時の指定校制度に漏れていた首都圏の一般的な私立大学、及び地方の大学に所属する学生も業界2~4番手の大企業に就職できたことから、当時の方が総じて就職活動は容易でした。

 

民間企業の業績・給与がうなぎ上りだったことに比べ、景気の動向に左右されにくい公務員はバブル景気の恩恵をさほど受けませんでした。

このため「公務員の給料は安い、良くて平均的」といった風評が大学生の間で蔓延して、「公務員はバカがなるもの」と見下されがちでした。

とりわけ地方公共団体には優秀な新卒が集まりにくく、各団体は公務員の堅実性のPRを積極的に行われました。

農林水産業や製造業などの分野と比較して、銀行や証券といった金融分野が大幅に収益を伸ばし、これらの業界は、さらに高度な金融商品の開発に充てる人材の確保を意図して、理系の学生の獲得に動きました。

また、バブル景気の浮かれた雰囲気の中で、電通やサントリー、カネボウやフジテレビなどの、広告出稿量の多い、もしくはマスコミや広告代理店、外資系企業などの華やかなイメージの企業の人気も高まり、文系学生のみならず理系の学生もがこれらの企業に殺到しました。

 

好業績で注目を浴び高い給料を提示する金融業や華やかな業界への就職希望が増えたのに対し、製造業では学生の確保に苦労することになりました。

理系の学生が、産業界以外の分野、殊に金融業やサービス業へ就職することを指して文系就職とも言われました。

これに対応するため多くの製造業が初任給を引き上げる動きに出ましたが、場合によっては既に在籍している社員よりも高い俸給が提示されることもあり、不公平であるとの批判も起こりました。

 

トレンディドラマ

放送局では大量のスポンサーが付いたことで莫大な収入が入るようになり、番組にはジャンルを問わず多額の制作費が惜しみなく投入されました。

この時期はファッションモデル出身の若手俳優や女優を主役に据え、生活感が皆無な毎日の暮らしを描いた「トレンディドラマ」が若い女性にブームとなっていて、特にフジテレビ月9ドラマがその牽引役となっていました。

また、アメリカに多いジャンル別FMラジオ局に倣った(スタイルを真似る、英語アナウンスの多用等)「お洒落な音楽だけを流すFM放送局」が登場したのもこの当時でした。

テレビコマーシャルも従来の商品宣伝型CMは下火になり、それに変わって企業イメージを向上させることを目的としたCM(JR東海のシンデレラエクスプレス等)が多く製作されました。

 

アッシー、メッシ―、ミツグくん

また一部の男性は女性の気を引くべくプレゼントを贈ったり、高級レストランで接待したり、彼女たちを乗せる乗用車にお金を注ぎ込んだりしているとメディアでは伝えられ、このような一部男性は「アッシーくん」、「メッシーくん」、「ミツグくん」、「キープくん」などと蔑んで呼ばれていました。

そして、彼らに対する正式な“彼氏”は「本命くん」とメディアは呼んでいました。

しかし、アッシーや三高などはメディアや社会学者、評論家らが面白可笑しくいっていたに過ぎず、実際にどれだけの男性がアッシーをしていたのか、どれだけの女性がアッシー扱いしていたのかは検証されていません。

 一方で、一部の羞恥心を欠いた中年女性を「オバタリアン」、品がなくて、帰宅したら母親に「風呂、飯、寝る」しか言わないような若い女性を「おやじギャル」と呼んだりしました。

バブル時代には、「クリスマスは大学生が高級ホテルのスイートルームでパーティー」「赤坂・六本木では万札を振りかざさないとタクシーが拾えない」といった事象が起きていました。

 

海外旅行

格安航空券の流通拡大にあわせて、日本人の海外旅行者が増加したのもこの時期からでした。

1986年には、550万人程度だった日本の海外旅行者が、わずか4年後の1990年には、1000万人を突破しました。

 

ゲーム機

家庭用ゲーム機業界においても、ファミコンの次世代を担う次世代機の競争が各社で始まっていたが、なかでもNECホームエレクトロニクスが開発した「PCエンジン」の周辺機器で、当時最新鋭だったCD-ROM2システム、セガ(後のセガゲームス)が開発した「メガドライブ」の周辺機器であるメガCDを、ゲーム機に組み込ませた製品が4~5万円で発売されるなど、ゲームにおいても高級志向が浸透していました。

1990年にSNKからリリースされた「NEOGEO」のように、高級ゲームの市場を開拓すべく発売されたゲーム機もありました。スーパーファミコンのソフトの価格が、一部を除き八千円、九千円台であったことも、当時の好景気を象徴しています。

 

バレンタインデー

バレンタインデーにチョコを贈る慣行は、オイルショックによる景気低迷の時代に、百貨店業界がより積極的に仕掛けたように、クリスマス・イヴにカップルで夜景の見えるレストランで食事し、ホテルに宿泊するというスタイルは、円高不況期にホテル・外食産業やマスメディアなどによって仕掛けられました。

赤坂プリンスホテルやシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル、東京ベイヒルトンなどの高級シティホテルに宿泊することが流行し、3か月前の予約受付開始直後に「12月24日の予約」が一杯になる状況が続いていました。

 

スキーブーム

キー場の開発が相次いでなされたことと、1987年に映画『私をスキーに連れてって』が大ヒットしたこともあって、スキーブームが起こり、苗場プリンスホテルなどが人気となり、リフト待ちに数時間かかるような事態も起きるほどでありました。

さらに、東京都心至近距離の千葉県船橋市に、屋内スキー場「ザウス」が出来たりもした。「ザウス」は、バブル崩壊後の1993年のオープンであるが、スキー人口のピークの年でした。

 

ディスコ

消費の過熱は、六本木や銀座、新宿、渋谷などの歓楽街にも影響し、これらの盛り場では、大金を手にしたいわゆる「バブル紳士」から、学生ビジネスのみならず、アルバイトで遊ぶための金を手にした学生までが大金をつぎ込みました。

1980年代後半にかけて、六本木では雑居ビル「スクエアビル」の殆どがディスコになった他、六本木駅界隈には、50店舗以上もディスコが乱立し、その多くが盛況になるなど、第2次ディスコ・ブームが起こりました。

また、カフェバー、カラオケパブが流行するなど、この頃のバブル景気の象徴として「ジュリアナ東京」が取り上げられることが多いです。

また、都会に在住する裕福な大学生を中心に組織されたイベント系サークルが、これらのディスコを数十店舗単位で同時に貸し切り、ミズノや日産自動車、スバルやサントリーなどの大企業のスポンサーを付けた上で、全国規模で数千人を動員するパーティーも行われました。

 

高級車ブーム

バブル経済の時代、ベンツや日産のシーマなど高級消費ブームに沸きました。

1988年1月に、日産自動車が発売した500万円以上の高級車「日産・シーマ」が大ヒットを記録、日本銀行の支店長会議では、日本の豊かさを表しているとしてこの事例を「シーマ現象」と名付けました。

それまでは、一部の富裕層のステータスシンボルとされていた外国車も、その販売台数の急増から、東京都や神奈川県などの都心部ではメルセデス・ベンツ 190Eが「コ(子)ベンツ」「赤坂のサニー」、BMW3シリーズが「六本木カローラ」などと揶揄されるほどに普及しました。

特に高級外車は、東京都心や大阪市内などの大都市の道路でメルセデス・ベンツSクラス(ケーニッヒやキャラットコンプリートなどのチューン版も多かった)やポルシェ・911、ジャガー・XJなどが走っているのが全く日常の光景の一部となり、フェラーリやランボルギーニ、マセラティやデイムラー、さらにはロールス・ロイスなどの、これまで輸入台数の極端に少なかった高級車が走っていることでさえ、大都市近郊においては特に珍しい存在ではなくなったのはこの頃以降のことでした。

またこの当時、ヤナセ(メルセデス・ベンツ)やBMWジャパン(BMW)などの正規輸入販売代理店経由でこれらの車を購入する場合、車種によっては注文してから納車されるまで1年以上かかるケースがあったため、輸入車専門店がドイツやアメリカ、ドバイなどから新車(時には中古車)を並行輸入し、「即納車可能」として正規輸入販売代理店の販売価格に上乗せしたプレミアム価格で販売し、その広告を全国紙に掲載しているケースもありました。

日本バブル経済 ~その4~

 

 

不動産投資ブーム

バブル期に建設・不動産・ホテル業界は、リゾート地やゴルフ場を次々と開発しました。

1987年に総合保養地域整備法、通称「リゾート法」が制定され、都市から離れた地域においても、大企業を誘致してリゾート施設を開発する動きが活発となりました。

特に北海道ではスキー場などのリゾート事業が急激に拡大しました。

これにより、それまで見向きもされなかった土地が相当な価格で取引されるなど、土地価格の上昇に拍車を掛けました。

またゴルフ場の会員権の価格は高騰し、それとともに次々に豪華な設備を持ったゴルフ場の開発が全国で進められました。

なお、当時のゴルフ場のテレビCMでは、バブル景気崩壊後なら「○○自動車道○○インターから車で○分」などとするところを「東京ヘリポートから○○分」などと案内するほどでありました。

 

というのもこの頃、日本の銀行は、外国の銀行と比べて少ない資本金(銀行が持つ自分のお金)で営業することができていました。

それで欧米の銀行が、日本の銀行の自己資本比率(銀行の資本金と借金&預金の割合)を欧米の水準まで高めるように要求しました。

 

1987年、国際決済銀行(BIS)が定めた「バーゼル合意」という決まりに参加することになって、日本の銀行も海外の銀行と同じように自己資本8%*の積立を義務化されました。

 

*簡単にいうと、自分のお金が8万円しかなかったら、92万円までしか預金を集めたり、他の銀行から借り入れをしてはいけないということ

 

ただ日本の代表団の決死の努力で、「持ち株の含み益の一部を自己資本に算入できる」という日本だけの特例をさりげなく認めさせることに成功しました。

というのも当時、日本の銀行は株式持ち合いにより、取引先の株式を大量に保有していたからです。

当時バブルが盛り上がり始めて株価は上昇していました。

なので、この株価上昇分の一部を自己資本にできるよう必死に交渉して、それに成功しました。

 

銀行は自分のお金(資本金)と、預金者から集めた貯金を、融資し、その利息をもらうことで儲けています。

景気が良くなって、「お金をもっと使いたい!」という企業が増えると、銀行は融資の量を増やします。

預金者にも預金金利を支払わないといけないので、現金をそのまま金庫に預けていると損をします。

なので、銀行は企業にお金を貸して利息をもらうと、とっても幸せになります。

ただお金を借りた人の中には、お金を返さない人も出てきてしまいます。

ある人からお金を返してもらえなくなっても、みんなから預かっている預金は守らなければいけないです。

なので、銀行の自分のお財布から、返してもらえなくなったお金を補填します。

 

ある人達に返してもらえなくなった金額>銀行の資本金

 

になると、銀行は破産してしまいます。

ここでバブルの原因のひとつとなった「BIS規制」(正確にはバーゼル合意)について説明します。

BIS規制というのは、

 

「銀行が自分のお金がないのに預金や借金をしてまで、人や企業にお金を貸しすぎないようにする」

 

「どの国の銀行も同じルールの下で頑張ることで、銀行が営業をしていく上で、国のあいだでどの銀行が有利か?をなくす」

 

という2つの目的で作られた規制です。

「銀行がお金を人に貸しすぎて、そのほんの一部が返済されなかっただけで潰れてしまい、預金者や国が迷惑する」ということを防ぐための規制です。それで、貸すお金の量を増やすには、「銀行の資本金(銀行自身のお金)はこれだけないとだめですよ〜」って基準を決めました。

これが「最大でも銀行の資本金の12.5倍(8%)*までしか、お金を預かったり、融資をしてはいけません!」というバーゼル合意、通称BIS規制です。

 

*8%→100%÷8%=12.5倍

 

ただいきなり言われても無理ですよ・・・・ということで、日本だけ特別に「持っている株の含み益の約半分*」を銀行の資本金に入れていいという条件にしてもらいました。

 

*細かく言うと「含み益の45%を自己資本の50%まで算入できる」という条件です。「

持っている株を誰かに売って利益確定をしていなくても」、持っている株の価格が上がればそれを資本金扱いにすることができました。

 

これがどういうことかというと、資本金が増えて(実際は利益を確定していないので増えていないけど)、融資できる量が増えるということです。

もらえる金利も増えるので銀行はハッピーです。株価が下がると、増えていた資本金がその分減るので、融資できる量が減るということです。

資本金が減った分、融資の量を減らさないといけないので、なんとしても貸しているお金をすぐに回収しないと銀行免許が取り上げられちゃうという事態になります。

そんなこんなで、銀行の資本金の量で貸し出せる融資量の限界が決まるようになりました。

含み益の45%を自己資本の50%まで算入できる→株価が上がれば、貸し出せる融資量を増やしても良いということです。

 

不動産融資を増やせば、土地価格が上がり、担保価値が上がるため融資できる量が増える・・・

株価や不動産価格が上がれば、銀行の自己資本が増えるので、さらに不動産を買いたい人や企業に貸し出しをさらに増やすことができる・・・

お金を借りた人は、そのお金でさらに株や不動産を買って、それでまた価格が上がる・・・

 

・・・以下エンドレスループ

 

こんな仕組みで「無限に株価や不動産価格が上がっていく仕組み」を、世界主要国の中央銀行が認める結果となってしまいました。

これをきっかけに、本格的に株価や不動産価格が上がり出し、日本がバブルに突入してくことになりました。

バブル期に特に借金を増やしたのは非製造業でありました。

建設業、不動産業、ノンバンクはバブル三業種と呼ばれ、借金がその他の業種と比べて大きく増えた業種でした。

また、大蔵省、日本銀行、東京証券取引所を結ぶ三角地帯は「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれていました。

 

【実録】バブル時代に起きた日本のブーム特集

ここからは、「実際日本のバブルがどれくらい凄かったのか?」がわかるエピソードをいくつか紹介していきます。

 

その1:世界の画家コレクターも驚いた日本の絵画ブーム!

世界最大手の美術品競売の運営として有名なサザビーズという会社は、美術品が欲しいという人を増やすために、世界中の裕福な資産家に向けて、豪華なチラシや、贅沢なパーティーをしてアピールをしていました。

それだけではなく、競り落とした美術品を買うための融資、美術品の相場がわかるように「美術品市場指数」を開発して発表することまでしていました。

こうした努力もあって、1980年代には「美術品は投資価値がある」ということが、世界中で当たり前になりつつありました。

 

1985年の「ドル安円高にします!」というプラザ合意で極端に円高になった結果、海外のものがほぼ半額になり、日本人による空前絶後の絵画ブームが始まりました。

1986年には、日本の美術品輸入総額がドルベースで前年の4倍になり、世界の美術品コレクターのあいだで急に日本人が存在感を表し始めました。

ここから「日本人の美術品へのお金の使い方がどれだけ凄まじかったか?」のエピソードを一部紹介します。

 

・1987年、安田海上火災がゴッホの「ひまわり」に4000万ドル弱(約57億円)を支払う(美術品の取引価格として、過去最高額の3倍以上の金額)

 

・640万ドルという当時の過去最高額でダイヤモンドを購入

 

・グーテンベルク聖書という西洋初の印刷された聖書を過去最高の590万ドルで購入

 

・ピカソが描いた未完成の作品「ピエレットの婚礼」を5140万ドルで落札

 

・大昭和製紙の名誉会長がゴッホの「医師ガシェの肖像」を8250万ドルで、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を7800万ドルでそれぞれ購入

 

日本がバブルに盛り上がる1980年代末、フランス印象派の絵画を15年前と比較したところ、ダウ工業平均株価は2倍にもなってしまい、20倍以上に値上がりしたと推定されました。

 

この頃、ピカソが流行っていて、特に日本人が美術品の価格を引き上げたことで、美術関係者の中でも「美術品の世界で過去になかった熱狂っぷり」と当時話題になっていました。

購入した高価な絵画や美術品は、銀行から借り入れをして株式や不動産を購入するときの担保にも使われて、企業の財テクの立派な一部門となっていました。

 

 

その2:ゴルフ会員権は10倍に!

バブル時代、美術品と同じくらい盛り上がったのが、ゴルフの会員権でした。

元々、会員権はゴルフを利用する権利ですが、1980年代に土地の価格が上がるにつれて、「会員権=ゴルフ場の不動産を保有する権利」という見方から、投資対象として魅力的になったことから一気に売買が活発化していました。

ゴルフの会員権に人気が出始めたので、銀行は会員権を担保に新規ゴルフコースをつくる資金を融資するようになりました。

1982年、日本経済新聞が全国約500のゴルフコースを対象に平均価格を算出、日経ゴルフ会意見指数を発表しました。

不動産は売ったり買ったりするのが大変で価格がわかりづらいことから、ゴルフ会員権指数を不動産市場の先行指標とする人もいたくらい流行っていました。

1982年1月の水準を100とするゴルフ会員権指数が、1985年末には160に、プラザ合意で円高になった翌年1986年にはそこから2倍に、1990年春には1000弱と、たったの8年でゴルフ会員権の相場は10倍になっていました。

1980年末にはなんと1000を超えるゴルフコースが建設されていました。

 

その3:政府が売り出したNTT株価!

実はバブルの初期、大蔵省にとって株価を高くすることはとっても大事なことでした。

2015年にゆうちょグループが上場(政府が100%保有していたのを一般投資家に売りに出した)した時のように、政府が運営と保有していたNTTの株を民間に販売する予定だったからでした。

というのも、景気を良くするために国がお金を使いすぎて来た反動で、国の借金を少しでも返そうと大蔵省は必死になっていました。

1986年8月、日経平均が18000円を超えるのとほぼ同時に、NTTを上場させて民間に売り始めました。

10月に第一回分として、合計20万株を売りに出すと発表しましたが、政府は売り出し価格を発表していなかったにも関わらず、2ヶ月の間になんと日本国民の12人に1人、1000万人近くが応募しました。

抽選により株式を割り当てて、1987年2月にNTTは東京証券取引所で上場しました。

上場時のNTT株価は120万円だったのが、上場後たった2日で25%値上がりしました。

株式市場はこれに反応し、数週間の間にNTT株は320万円になりました。株価収益率は200倍になりました。株価収益率というのは、「企業が稼ぎ出した1年間の利益あたり、1株につき何倍の価格がついているか?」という、株価がどれくらい高いのか安いのかを見る指標です。

例えば、ある株式会社が一年間で1株当たり1万円利益の出る会社で、株価が20万円なら、「1株当たり20年分の利益の価格がついていて、株価収益率は20倍」という見方をします。

NTTの時価総額は50兆円を超えて、NTT1社の時価総額だけでなんと「ドイツの株式市場」と「香港株式市場」の合計を上回る水準になりました。

1987年11月のNTT株2回目の放出の時、ジャパンエコノミックジャーナルという海外の雑誌では、こんなふうに書かれていました。

 

「NTT株の人気を支えているのは、政府が売り出した株だから、政府が国民に損をさせるはずがないという見方である。

・・・個人投資家はNTT株を買うとき、日本そのものを買うのだと考えている。だから、何の心配もなく買っている。」

 

NTT株が売りに出される時期から、企業の財テクによる利益水増し効果以上のペースで急激に株価は伸びていきました。

 

日本企業の海外でのお金の使い方も凄かったでした。

 

・1986年、三井不動産がマンハッタンのエクソンビルを記録破りの6億1000万ドルで購入。その時、三井不動産の社長が、ギネスブックに自分の名前を載せてもらおうと、エクソンの言い値に2億6000万ドル上乗せしたとも新聞で報じられていました。

 

・三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンタービルを10億ドル以上(当時のレートで約2200億円)で買収

 

・ソニーがハリウッドのコロンビアピクチャーズを34億ドルで買収

 

・・・etc

 

などなど、アメリカを象徴とする有名な資産を次々に巨額で買収、アメリカからはジャパンマネーとして恐れられていました。

こんなふうに、新聞などでも日本を警戒する声が上がってくるようになっていました。

 

1987年、ついに日本はGNP(国内と海外にいる日本国民が生み出した付加価値の合計を表す経済指標)でアメリカを追い抜いて豊かさで世界第一位の経済大国アメリカと並ぶことになりました。

日本の銀行は総資産と株式時価総額で世界の上位を独占しました。

日本の株価は欧米の常識ではありえない株価水準になったので、海外投資家は1980年代半ば以降、持株を徐々に減らしていきました。

 

海外投資家とは対照的に、日本国内投資家の間では「日本の会計基準では利益が過小評価されている」「株式持ち合いで株価収益率が高めになっている」という理由から、株価は妥当で当然の水準であると考えられていました。

何をやっても株価が上がる状態で、株式分割をするだけでも株価が上昇する状態でした。

 

戦後の日本は、「各企業が自分たちの考えで頑張る」というのではなく、「通産省や大蔵省などを初めとする官僚による管理」のもと経済成長をしてきました。

どの企業に特権的な地位を与えて、どの業界を外国企業から守るか?を官僚がすべて決定と管理していました。

日本の官僚による、「外国からの輸入品の制限」のおかげで、日本の企業は「海外で売るよりも高い価格で日本人に商品を売る」ことで成長してきました。

 

その流れで株式の持ち合いは1970年初め、外国企業による買収を防ぐために活発になり、バブルが盛り上がりはじめていた1980年台後半には、なんと発行済株式数の約70%が持ち合い株になっていました。

この株式持ち合いは、日経平均株価が1000円下落すると、銀行の保有株式の時価は3兆円減少し、損失を被るというすごい規模でした。

当時の日本では、こんなふうに株をお互いに持ち合ってそれを決して売らず、株を売る人の数が少なかったのです。

これが当時日本の株価が下がりにくく、株価が上がっていった原因の一つだったという分析がされています。

 

一方で象徴的ビルや企業が日本企業の手に渡ったことにつき、アメリカの心を金で買い取ったとする非難(いわゆるジャパン・バッシング)が浴びせられました。

また、日本国外の不動産への投資は現地の地価の高騰を招くとともに資産税を上昇させ、正常な取引を害し地元経済を混乱させたものとの非難が浴びせられました。

 

「アメリカ経済は(日本による)真珠湾攻撃にさらされている」なんてことも頻繁に言われるようになって、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本がアメリカでも日本でもベストセラーになっていました。

1980年台後半にはあまりの日本の勢いから、日本は「債権大国」「資産大国」「金融大国」になったとまで、海外から言われるようになっていました。

野村証券は日経平均株価が1995年に8万円に達すると予想しました。

 

さらに当時の内閣総理大臣だった中曽根首相は、

 

「日本経済が成功し、アメリカ経済が後退している理由は、日本が単一民族社会であることに対して、アメリカは様々な人種の寄せ集めであるからだ」

 

という発言が飛び出すほどになっていました。

日本バブル経済 ~その3~

 

バブル時代にすごかったのは株だけではありませんでした!

企業は設備投資を積極的に行っていましたが、その資金は銀行の長期融資に依存せず、エクイティファイナンスでまかなっていたため、金融機関の融資は不動産に向かいました。

「土地は必ず値上がりする」「土地の値段は決して下がらない」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加しました。

 

1956年~1986年の間、物価は400%弱しか上昇していないのに、地価は1974年を除いて右肩上がりで、30年の間で50倍になった計算になっていました。

1985年と比較して、1990年には約400%の上昇となりました。

1986~1990年までの5年間で、日本国内の非金融法人企業は年平均142兆円のペース、家計は年平均約25兆円のペースで金融負債を増やしていました。

バブル絶頂期の1990年の非金融法人企業の純負債は636兆円でした。

(2008年12月末には非金融法人企業の純負債は322.9兆円です)1986~1989年に発生したキャピタルゲインは、資産価格の上昇により1452兆円に及びました。

1989年に家計が得た土地・株式のキャピタルゲインは260兆円なりました。

 

不動産価格があまりに右肩上がりなので、いつの間にか日本の銀行は、企業にお金を貸すときに「お仕事の内容やどれだけ儲かっているか?」ではなく、「企業がいくらの不動産を持っているのか?」だけを見るのが普通になっていました。

 

メガバンクと違って、当時規制の緩かったノンバンク(預金を預かっていない銀行)の不動産融資残高も1985年の22兆円だったのが、4年後の1989年末にはなんと約4倍の80兆円に増加しました。

日本中の銀行が不動産購入のために融資をしていました。

 

銀行はそれまで担保不動産の評価額までしか融資はしてきませんでしたが、この時期は不動産評価額の2倍まで融資することもありました。

お金を不動産向けに貸しまくっていた銀行のおかげもあって、1990年には日本の不動産評価額は総額2000兆円を超え、なんと日本の15倍の面積があるアメリカ全体の4倍になっていました。

 

 

1980年代初め、東京の国際都市への期待が高まり、外資系金融機関なども増加し、オフィスが大量に不足すると予想されました。

1980年代半ば以降、銀行は土地神話を信じ土地担保融資を拡大しました。

1980年代の日本は様々な規制等により土地の供給が極端に少なく、人口が増え続けるという見方が強かったため土地バブルが発生しました。

 

1980年代、不動産価格が上がり出すと、大手企業だけではなく、中小企業もみんな不動産投資をするのが当たり前になっていて、銀行も不動産を担保とした融資を特に増やしていき、中小企業の売上経常利益率は大企業を上回っていました。

1985年3月末から1993年3月末にかけて、全国銀行の貸出は251兆円から482兆円へと増加しました。

資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもを緩める資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もありました。

また、1986年から日本企業の欧米企業に対するM&Aが進められました。

企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生みました。

日本の1人あたりの国民所得はアメリカを抜きました。

 

1986年の都心の地価の上昇は7割に達していて、全国的には地価が落ち着いている中で「異常値」を示していました。

大都市等の優良な土地の高騰にとどまらず、収益の見込めない北海道や沖縄などの遠隔地の土地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引されました。

こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われました。

インカムゲイン(土地の有効活用による収益)ではなくキャピタルゲイン(将来地価が上昇することで得られるだろうと見込まれる値上がり益)を目的とすることが多かったのです。

 

バブルピーク時、なんと「東京の皇居の敷地」だけで「カリフォルニア州やカナダ全体の不動産」より評価額が高いと推定されていました。

地価が上がっていることと、東京のオフィスビルの空室率が低かったこともあって、都心部や地方都市でビル建設ラッシュが起こりました。

 

内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末をピークに、約2456兆円となったと推定されています。

日本全体の土地の価格総額は、1990年末時点で1985年末の2.4倍となりました。

 

東京圏では1987年と1988年の住宅地の価格はそれぞれ22%、69%上昇し、商業地の価格はそれぞれ48%、61%上昇しました。

大阪圏では1989年と1990年の住宅地の価格はそれぞれ33%、56%上昇し、商業地の価格は1988~1990年で30~40%上昇しました。

 

第二次世界大戦後、1990年代初めにバブルが崩壊するまで、地価は永遠に上がり続けるという「土地神話」が信じられていました。

戦後一貫してオイルショックの一時期を除き、バブル崩壊まで地価は下がりませんでした。

それに追随したのが当時のテレビを含むマスコミであり、土地神話による地価の高騰が永遠に続くものであるかのような宣伝を繰り返していました。

 

この頃には株を売買する判断は「企業が持つお金を儲ける力」ではなく、「企業が持つ不動産」に関心が集まり、保有する不動産を手掛かりに売買されていました。

1988年には、企業の持つ不動産の含み益が日本全体で430兆円に達していると推定されていました。

東京電力の株は、広大な土地や不動産を保有していたことに注目され、1986年の「東京電力1社の時価総額の増加」が、「香港証券取引所に上場する全企業の時価総額」を上回るくらい人気でした。

 

同じように、保有する不動産の含み益が莫大なことで有名だった航空会社の全日空の株は一時、株価収益率1200倍(一年間の利益の1200倍の株価)近くまで買われていました。

この頃、大手企業から中小企業まで保有する不動産のうち3/4近くが、事業とは関係なしに、単純に値上がり益のために保有されていたと言われていました。

また、企業に留まらず、土地を担保に大金を借り入れた中小企業オーナーや個人、マイホーム資金を貯蓄していた個人の中からも、日本国外の不動産に投資を行う者が出てきました。

1986年秋に売り出された東京新宿区の再開発住宅「西戸山タワーホームズ」はマンションブームに火をつけました。

1987年4月に売り出された東京江東区のマンション「スカイシティ南砂」は259戸の分譲に対し、38500人が応募しました。

また、リクルート社の銀座日軽金ビル購入の不動産取引成功が大々的に報道され、その後の不動産取引が活発化しました。

地価の上昇でも、国鉄清算事業団の未利用地販売に際しては「地価の高騰を煽る」として売却が凍結されて、逆に土地の飢餓感が煽られて地価の上昇を招きました。

 

土地を担保として融資を行うに際しては、通常は評価額の70%を目安に融資を行いますが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付けることも珍しくなりました。

破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もあります。

単一の物件に複数の担保をつけることも行われました。

背景には、金融機関の貸出競争が激化する中、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の姿勢もありましたが、この融資の一部は後の地価下落(担保価値が低下)によって不良債権となりました。

 

地価上昇は、地価の高い都心の戸建て住宅や高級マンションだけでなく、都市近郊にさえ戸建住宅を取得することを困難になりました。

日本のような戸建主義的な都市構造では、いずれは戸建住宅を取得することが人生の夢・目標の一つであるとされ、それを動機として貯金に励むことも行われていました。

しかし、過度の地価上昇をみて、これ以上値上がりする前に一刻も早く住宅を取得するべきだと考える人も増え、地価上昇に拍車をかけ、東京圏のマンション価格はサラリーマンの平均年収の8.9倍に達しました。

あまりにも住宅が高騰して、平均的な収入では最早購入するのが不可能な域に達すると、二世代ローンという本人の資力で支払きれないところを、その子の資力をもって補うものまで登場しました。

 

サラリーマンのマイホームの夢が遠のく一方で、相続税の負担が急激に重くなっていました。

特に、長年のローンを組んで余裕が無い状況で相続が発生すると、支払うべき相続税を用意することができずに困窮することもありました。

これに対応するために、親類縁者の若者を養子にして一人当たりの相続額を下げて相続税を節約する手法が採られたり、変額保険を利用する節税手法が利用されました。

しかし、バブル崩壊後は資産運用の計画が狂い、窮地に追い込まれる契約者もありました。

 

バブル時代には地価上昇を前提とした住宅取得のモデルも提示されました。

若いうちに小さいながらもマンションを取得し、それを下取りに出して順次条件の良いマンションに買い換えれば、最終的には望む戸建ての住宅を手に入れられるとされ、「住宅すごろく」とも言われていました。

単に貯蓄をしていては住宅高騰に決して追いつけないが、マンションを資産として購入しておけば価格上昇が見込めて有利である、と説かれていました。

しかし、バブル崩壊後は物件を見極める目も厳しくなり、単にマンションであることでは資産価値を認められなくなりました。

事実上資産価値の無くなった都市近郊のマンションに対する多額の支払いが残り、負債を抱えて身動きが取れないケースもあります。

 

また、あまりにも高騰した住宅の取得を早々に諦め、「あきらめリッチ」と呼ばれ、収入を貯蓄することなく、高級車など耐久消費財の購入や海外旅行に充てる刹那的な動きもありました。

これは、さらなる消費の過熱と貯蓄率の低下に繋がりました。

地価高騰を見て賃貸住宅の家賃も高騰し、結局都心から離れた土地へ移転を迫られ、通勤時間が長くなるという状況も生まれました。

これら地価高騰と住宅問題は当時の日本政府の懸念事項であり、後の地価抑制政策に繋がり、信用構造を圧迫することになりました。

 

バブル時代は豪華な1億円以上する分譲マンション通称「億ション」が流行っていました。

三井、三菱と言った大手不動産会社もこぞって高級マンションを企画し販売するようになり、これが億ションブームと呼ばれるようになりました。

有名なのが、チバリーヒルズという超豪華な分譲住宅です。

千葉県千葉市で「ビバリーヒルズ並の高級住宅街を日本にも」というコンセプトで、「ワンハンドレッドヒルズ」が開発と分譲販売されました。

 

東京駅から電車で1時間半というちょっと不便な立地にもかかわらず、600坪の敷地にベッドルーム5つ、テニスコート、プール付きが7億~10億円で販売し、すぐ9戸が即完売しました。

当時あまりの豪華さから、チバリーヒルズと呼ばれ、連日マスコミによる取材も多く「家の見学お断り」という看板が立つほど話題になっていました。

ただ、バブルが弾けると一軒一軒売りに出されるようになって、最終的に誰も住む人がいなくなって、ゴーストタウンと呼ばれる状態になってしまいました。

・・・さらに暴走族が出入りして暴れるという事態になったため、住民以外の車両が立入禁止になってしまいました。

 

東京都港区にある「ドムス高輪」というマンションは、17億9500万円という値段で分譲されて当時話題になりました。

またバブル時代は、東京近郊に限らず、地方都市の地価も高騰したので、億を超える高級分譲マンションの開発、販売も活発化しました。

 

1988年くらいから、公園に使うために地域に自分の土地を提供していた地主さん達から、「土地を返してくれ」と返還要求がいっぱい起きました。

というのも地価があまりに上がったので、一儲けしようとみんなそれを売ったり、建物を建てたりしようとしました。

 

特に値上がりの激しかった東京都の多摩地区で多かったのです。

あと、持っている土地の評価額が上がりすぎて相続税が巨額になることを恐れて、地主は公園を返してもらって「農地」に登記変更、評価額を下げて相続税を下げようと努力をしていました。

そんなこんなで、バブル時代に96個の公共の公園や広場がなくなってしまいました。

 

バブル当時、あまりに不動産価格が上がっていたので、地主さんたちは自分たちの不動産を売ったり、建物を建て替えてもっと高く売ろうとしようとしていました。

ただそこに住んでいる人たちがいると、なかなか建物を作り直したり、建て替えるのが難しかったのです。

そこで活躍していたのが「地主さんたちの代わりに、家を借りている人たちと交渉して土地を買収する人や企業、通称「地上げ屋」」と呼ばれる職業の人達でした。

実際は、住んでいる人に出ていってもらうが仕事みたいなものでした。

当時怖いヤクザの人達も関わったりして、今でもあんまりいいイメージはないみたいでした。

 

朝昼晩に電話をかけ続ける

一日中騒音を起こし続ける

動物の死骸を送りつける

 

という嫌がらせをして住民に出ていってもらうのが良くあったのです。

世田谷で立ち退きをさせるためと思われる放火事件まで起きて、色々大変だったみたいです。

1988年に都内のお弁当屋さんが襲われ、弁当屋の店舗もめちゃくちゃに破壊されるという事件が起きました。

調べてみると、これは建物のオーナーがビルを建て替えてお金を儲けるために、お弁当屋さんの店主に立ち退きを迫ったけど断られた・・・それで600万円で怖い人達を雇って、無理やり立ち退きさせようとしてみたいです。

この事件のように、「地上げ屋さんに土地を売って、地上げ屋さんが嫌がらせをするだけではなく、土地を売ってお金を儲けるために、大家自身による強引な立ち退き」も良くありました。

 

また、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となりました。

そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表にしたり、依頼を受けた地上げ屋の強引な手口による「地上げ」が行われるようになり、社会問題となりました。

 

銀行は「地上げ」に巻き込まれるのを嫌い、リスクの高い物件に自ら直接融資をせず系列ノンバンクに融資させようとしました。

しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることになりました。

これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれています。

 

道路用地の取得価格も高騰し、新東名高速道路などの建設に要する資金の増大を招いて、日本道路公団の経営圧迫の一因ともなりました。

高価な土地が障害となって、地方公共団体の公共事業が進められなくなる事態も生じました。

潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になりました。

都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがありました。

日本バブル経済 ~その2~

 

財テクブーム

企業は、特金でもっと儲けようと考えました。

それでこの「絶対儲かると証券会社から保証された利回り保証付きの特金」に投資するためのお金を、複雑な金融商品を使って海外の投資家から集めていました。

それが「ワラント債」と呼ばれる金融商品です。1981年、日本政府は日本企業にワラント債と呼ばれる、「社債に株式ワラントをつけたもの」を海外市場で発行することを許可しました。

それ以来、企業は密かにこの仕組みを使った財テクで利益を上げ続けていました。

 

ワラント債というのは、「企業がお金を借りたという借用証書(債権)」に、ある一定期間の間、債券を発行した企業の新しい株を「あらかじめ約束した価格で買う権利」のついた証券のことです。

すごく雑に言ってしまうと、ワラント債でお金を借りると、普通にお金を借りるよりも金利が低くてお得で、株価が上がれば上がるほど、少ない金利でお金を借りることのできるという意味です。

日本株はそのころ急激に値上がりしていて、企業はワラント債を超低金利で発行してお金を借りることができるようになっていました。

 

実は日本企業がワラント債発行に夢中になっていた理由がもう一つあります。

日本企業は、外国からお金を借りる時に「円をそのまま借りるのではなく、ドルなどの外国のお金で借りた後に円に両替して特金に投資」していました。

その頃円は大人気で、しばらくは上昇すると思われていたので、ワラント債を発行して海外からお金を借りた企業は、為替市場でドルなどの外貨→円に両替する時に得をすることで、実質お金を借りたのに儲かっているという不思議な状態*でした。

 

※専門的な話をすると、ワラント債権の多くはドル建てて発行され、スワップ市場で円に換える方法が取られていました。

 

こんな異常な状況の中、日本の企業はこぞってワラント債を発行し、海外の投資家から借りた資金を直接株式市場に投資したり、当時8%の利回り保証のついた証券会社が提供する「営業特金」で運用していました。

 

日本株が上がるとワラント債の価格が上がる

→企業の利益が上増しされる

→さらに借りることのできる資金が増える&利息も低金利に

→さらに借りたお金を株式市場に投資することでさらに株価が上昇

→日本企業の利益が増える&ワラント債が値上がりして、財テク利益がさらに増加

 

・・・・以下エンドレスループ

 

という循環で、「企業はいくらでもお金を借りて株を買えるし、株価はいくらでも上がる」というスパイラル状態になっていきました。

 

財テクは、日本企業にとって絶対負けないマネーゲームになっていました。

こんな状態になったので、日本企業のワラント債は海外投資家からも大人気になりました。

 

トヨタ自動車は1986年、財テクのために総額2000億円の転換社債*を発行、お金を借りる利息は2%以下。

さらに翌年には総額1兆7000億円の資金を運用して、1500億円の利益を財テクで儲けていました。

 

*転換社債とは「債権をあらかじめ決めた比率で途中で株に交換できる」という特殊な債権の事です。

 

例えば、100万円分の転換社債を買って、株への交換価格が1万円と決められていた場合、好きな時に転換債権を100株と交換できます。

株価が2万円に上がっていれば、すぐに債権を100株と交換してそのまま売れば、200万円で売って100万円儲かる事になります。

逆に株価が5000円に値下がりしていれば、そのまま株とは交換せずに債権として持ち続けて企業から利息をもらうこともできるというちょっと特殊なお金の借り方です。

 

バブルが弾ける少し前の1990年、阪和興業という上場企業は株式投資で200億円の損失を出して話題になりましたが、この時点で阪和興業はこういった財テクを利用して、自分たちの持つお金の12倍もの借金をしていました。

 

日本企業が財テクによって調達した資金は、株や不動産投資以外にも設備投資にも使われて、「世界史上最大の設備投資ブーム」と呼ばれるほどになって、景気もすごく良かったのです。

海外からお金を借りて株を買って、さらに株価が上がって儲かり、みんなが儲かって幸せいっぱいだったので、みんなお金を使うようになっていきました。

なので、プラザ合意から始まった円高で、海外で物が売れなくなっても、日本企業はそんなに気にすることなく乗り切ることができていました。

日本バブル経済 ~その1~

 

 

1980年代後半の日本に空前に起こった日本バブルについて解説しようと思います。

 

遡る事、今から51年前の1973年第一次石油ショックにより世界中の人々は、突然、物価の上昇と不況に同時に襲われました。

 

この問題を解決するため、アメリカ大統領ジミー・カーターを中心に、日米独の3カ国が協調しました。大規模な財政刺激政策を行い、世界経済を回復させようとしました。

しかしわずか5年後の1979年、第二次石油ショックにより再び不況に突入にしました。

日本は単独で大規模な財政拡張計画を採用しました。

その結果、日本はいち早く第二次石油ショックから抜け出しましたが、その3年後に国債残高はGDPの35.2%まで膨れ上がることになりました。

 

しかし日本以外の先進国、特にアメリカは、1970年代から続くスタグフレーション、

激しい不況とインフレに苦しんでいました。

 

日本でバブルが起きたのは、1986年12月~1991年2月までの株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰、経済拡大の期間です。

 

1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上に毎日繰り返された不動産価値の宣伝により地価は異常な伸びをみせ、当時の東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年12月29日の大納会では、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていました。

 

最初に日本のバブルに関わった人たちを簡単に紹介します。

 

バブルに関わった人たち

その1:汚職発覚でツライ目にあった日本の首相達

中曽根 康弘 第71-73代内閣総理大臣

当時、国が運営していた国鉄(現JR)・電電公社(現NTT)・日本専売公社(現JT)の3社を民営化した内閣総理大臣です。

当時のアメリカ大統領レーガンとは「ロン・ヤス関係」と呼ばれるほど仲良しで、アメリカと親密な関係を築きました。

バブル景気のきっかけを作り、日本の歴史史上最大級の汚職が発覚し、総理大臣職を辞職しました。

 

竹下 登 第74代内閣総理大臣

昭和最後の内閣総理大臣です。中曽根内閣時代に税金を一手に管理していた大蔵省のトップ、大蔵大臣を務めました。

芸能人DAIGOさんのおじいちゃんです。

中曽根前首相の汚職発覚後、前首相の後押しもあり後任で内閣総理大臣になりました。中曽根前首相の指示で消費税を導入しました。

国民からブーイングを浴びる中、実は中曽根前首相と同じく汚職に関わっていたことが発覚したこともあって辞職しました。

 

宮澤 喜一 第75代内閣総理大臣

2024年現在、官僚出身の最後の内閣総理大臣です。

酒豪で有名で、バブル崩壊時に首相でした。

バブル崩壊時に税金を使って潰れそうな銀行を救うことを主張していましたが、その政策自体が国民から反発を買うことが確実なこと、さらに中曽根首相と一緒に政治汚職に関わっていたこともあり、同じ自民党の仲間や国民から猛反発され、総理の座を譲り渡すことになりました。

しかしその後、小渕内閣発足時、再び大蔵大臣になり、バブルの後処理を頑張ることになりました。

 

その2:大不況のアメリカ経済を何とかしようとした大統領

ジミー・カーター第39代アメリカ合衆国大統領

アメリカとロシアの冷戦中に大統領となりました。

影の薄い大統領として有名でした。

 

ロナルド・レーガン 第40代アメリカ合衆国大統領

元映画俳優で、めずらしい離婚歴のある大統領です。大統領就任から69日後、暗殺未遂事件に遭いました。

モノの値段は上がっているのに景気は悪いというWパンチの通称「スタグフレーション」からアメリカを救うため、「レーガノミクス」という経済政策を実施しました。

その過程で、間接的に日本のバブル経済行きをアシストしました。

 

 

その3:バブルを育て、バブルを潰した日本銀行総裁達

澄田 智 第25代日本銀行総裁

当時、裏の国の支配者であった大蔵省出身です。

「霞ヶ関の天下り支配者は、日銀総裁(の澄田智だ」「バブル経済の戦犯」などと一部では呼ばれている、ちょっと気の毒な人です。

元職場の大蔵省と仲が良く、彼らの意向に従い、日本のバブルを大きくふくらます決断を次々と下していきました。

 

三重野 康 第26代日本銀行総裁

日本中がバブルに踊る中、「俺は株には手を出したことがない」と公言していた男の中の男です。

バブルが膨らみ日本中が踊る中、バブルの危険性を一貫して主張しました。

日銀総裁に着任すると、大蔵省を無視し、バブルをつぶす大胆な経済政策を取り、バブル崩壊の引き金を自ら引き、「平成の鬼平」と呼ばれることになりました。

(三重野以前は、伝統的に大蔵省から日銀総裁を選んでいました。三重野は大蔵省出身ではなく、日本銀行から叩き上げで日銀総裁になった当時では珍しい人物でした)

 

その4:裏の支配者「大蔵省の幹部」&金融機関の社長達

当時絶大なる権力を持っていた大蔵省です。

そして、彼らに強い影響力を行使されていた金融業界です。

バブル時は大蔵省の指示で株価維持工作に協力していました。

金融業界と大蔵省のその強い癒着ぶりは、過剰な接待、賄賂などとともに、バブルが崩壊するにつれ明らかになりました。

 

 

1970年代の貿易摩擦

不景気になると、モノが売れなくなるので値段は下がります。

これが常識だった1970年代。

アメリカは「モノの値段が上がると同時に、すごい不景気になる」というスタグフレーションで、大変なことになっていました。

というのも、1973年に世界中のために石油をたくさん掘っていた中東で「第4次中東戦争」が起きたのをきっかけに、石油価格が滅茶苦茶、上がってしまいました。

石油の価格が上がると、石油が原料のガソリン代も値上がりするし、トイレットペーパーなんかの値段も上がってしまいました。

そのタイミングで不況になってしまって、仕事もないのに日用品の価格は上がり続けて、アメリカの人たちはみんなすごい困っていました。

 

「なんとかしないと大統領を続けられなくなっちゃう・・・」

 

と、困った当時の大統領ジミー・カーターさんが、後に「インフレファイター」と名を残すことになるポール・ボルカーというおじいちゃんを中央銀行総裁に任命しました。

 

ポール・ボルカーさんはとにかく物価が上がるのを止めようと、アメリカ史上、類を見ないほど金利を思い切って引き上げることで、この苦しい状況から脱出しようとしていました。

1979年に平均11.2%だった金利は、2年後の1981年にはなんと20%を超えるくらいになっていました。

その結果、ドルが人気になってドル高に、円の人気がなくなって円安になってしまいました。

アメリカで日本の自動車が急に安くなって、アメリカの車が全然売れなくなってしまいました。

アメリカの日本への輸出量は減り、日本のアメリカに対する貿易量は増えてきました。

 

日本が民間政府収支の黒字をたくさん記録して儲ける一方、アメリカは民間、政府収支ともに膨大な赤字を記録しました。

「日本はアメリカ相手に物を売って儲けすぎ、アメリカは日本からものを買いすぎ」という大きな貿易不均衡を起こすことになってしまいました。

 

日本とアメリカの貿易のバランスの崩れ方がどれくらい凄かったかというと、1981年の70億ドルの黒字だったアメリカの貿易収支は、4年後の1985年には2120億ドルの赤字になりました。

アメリカ政府の財政赤字は740億ドルから2120億ドルに増えるくらい凄くなっていました。

さらに、アメリカの車があまりに売れないものだから、アメリカの自動車会社の人たちが怒って、デトロイトでは自動車産業の労働者が日本車を叩き壊して輸入急増に抗議しました。

 

この日米の貿易不均衡をなんとかしようと思ったアメリカは、日本に対して

 

・輸入増加(もっとアメリカからモノを買ってね)

・内需拡大(日本人は外国にモノを売るだけじゃなくて、もっと日本国内でもお金を使うようにしなさい)

・規制緩和(アメリカの会社も日本で商売できるようにしなさい)

・・・etc

 

などなど、強い要求を突きつけて当時の日本の総理大臣、中曽根さんはそれに従ってしまいました。

 

プラザ合意

1985年、アメリカのジェームズ・ベイカー財務長官が、アメリカの製品が売れない現状をなんとかしようと、主要5カ国の偉い人を集めて、マンハッタンホテルのプラザホテルで会議を行われました。

ここでドルの価格を下げる(特に貿易不均衡の大きかった日本円に対して、ドルの価格を下落させる)ために、それぞれの国で協力することに合意しました。

ドルの価格が下がれば、アメリカの製品が海外で安くなってもっと売れるんじゃないかって狙いでした。これを「プラザ合意」とよび、ついにドル高の修正が各国の間で行われました。

その結果、1ドル259円で高値をつけていたドル円相場は、たったの数ヶ月後には220円を割り込むレベルまで円高になってしまいました。

安定成長とバブル期を分けたのは1985年9月に行われたプラザ合意ですが、その後、1987年の2月に行われたルーブル合意まで100円以上の急速な円高が進行しました。

 

 

短期間で円高が進んだことで、海外のものが安く買えるようになり、日本人のバカ買いブームのきっかけとなりました。

しかし、日本製品の価格が、海外の人からすると2倍近くに跳ね上がることになって、海外でモノを売って儲けていた日本製品が海外で売れなくなり、日本経済の悪影響がかなりでました。

 

バブル以前の1985年、プラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況でしたが、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していました。

当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く(現在は18%程度)、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化しました。

 

「モノを作って海外に売って儲けていた日本企業が、儲からなくなっちゃった」という「円高不況」をなんとかしろ!!

 

という製造業のさけびに、日本の影の支配者だった大蔵省は、日本銀行に金利を引き下げてお金を借りやすくすることで日本企業を助けるよう圧力を掛けました。

大蔵省出身で彼らと仲の良かった澄田日銀総裁は、1985年に約5%だった公定歩合:(銀行が企業に貸し出す金利の基準となる金利)を、合計4回引き下げて、翌年の1986年には3%まで下げました。

 

「金利を下げると企業がお金を借りてそれを使い出す。やがて景気が良くなって物価は上がって企業は儲かる」

 

と考えられるからです。

 

しかし、その時、偶然にも原油価格が下がっていて、さらに円高で輸入価格が下がっていたので、金利を引き下げても日本国内の物価はそんなに上昇しませんでした。

その代わりに不動産や株価など資産価格が上昇し始めました。1985年に約13000円だった日経平均株価は、翌年の1986年8月にはなんと日経平均株価は18000円に上がりました!

たった一年で日本全体の株価が40%近く上昇したのです!

 

その後も日経平均株価は急上昇し始め、1989年12月29日の大納会ザラ場で38957円の最高値を記録しました。

バブル期の日本株のPER(株価収益率)は、80倍以上となり、バブルが弾ける直前の日本株のPERは、100~200倍でした。

 

バブル景気で日本がインフレにならなかったのは、円高の影響で安い輸入品が多く日本に入ってきたからです。

1987年2月、逆にドルが安くなりすぎてしまったので、それを修正しようと各国が集まって「当時の為替レートが適正である」とした「ルーブル合意」が結ばれましたが、効果はほとんどなく円高は継続しました。

 

ブラックマンデー

そしてその年、ブラックマンデーと呼ばれる株価暴落が世界中で起きました。

株価が暴落して、これ以上景気が悪くなると日本の企業が潰れてしまうので、日本銀行は金利を下げ続けて企業を応援するという通称「金融緩和」を続けました。

ただ、これがバブルの始まりになるとは、この時、誰も予想していませんでした。

 

ブラックマンデーと呼ばれる世界株価暴落の翌日、大蔵省は当時4大証券会社だった野村証券、大和証券、山一証券、日興証券の4つの証券会社の代表を呼び出して、日経平均株価を支え、2万1000円以上に維持するように要請しました。

 

その方法が、特金と呼ばれる、銀行や証券会社を使って企業に株や不動産に投資をさせる制度でした。

大蔵省は、株価を維持するために特金(特定金外信託の略)と呼ばれる「株や不動産を売って利益が出た時の税金を低く抑える制度」を企業のために整備、その利用を認めました。

 

これを機に証券会社は特金のパワーアップ版の「営業特金」とよばれる、利回り保証のついた商品を企業に販売しました。

これは企業のために資金を運用して、銀行に預けた時にもらえる金利を超える水準で、最低利回りを保証するという素敵なサービスでした。この営業特金、絶対儲かるということを証券会社が約束しているようなものなので、企業から大人気でした。

 

1985年に特金に投資された総額は9兆円弱、4年後の1989年にはなんと40兆円まで膨れ上がっていました。

この営業特金は、法律違反すれすれ(というか違法)のサービスで公式には認められていませんでしたが、大蔵省は株価を維持するために黙って見逃していました。

営業特金が流行りだしたので、企業は本業以外での、「株や不動産投資での収益」が急に伸び始めて、財テクなんて言葉が流行り出しました。

財テクの利益は凄まじく、財テクで儲かったお金で仕事用の機械を買ったりと、本業の設備投資にも使ったので、日本の景気は良くなっていきました。

 

実は証券会社による利回り保証のついた「営業特金」が始まる前の1980年代初めから、日本企業は財テクと呼ばれる財務のハイテク化によって得た利益で、すごい儲けるようになっていました。

というのも実はこの時期、アメリカから「円相場を意図的に低い水準で押さえている」との非難されていたことに加えて、日本の規制だらけの状態をもっと自由にするように圧力を掛けられていたからです。

アメリカの圧力を掛けられ規制をなくすことで、外資系金融機関が日本で商売を始めたり、日本の金融機関が外国為替を自由に買ったり売ったりすることができるようになったり、お得意さんの預金金利を銀行が自分たちで自由に設定できるようになりました。

 

さらに、この時期に企業が海外から資金調達をすることもできるようになりました。

大蔵省はこの規制緩和で、世界の金融セクターになってニューヨークやロンドンと並ぶことを目指していました。

 

続く

南海泡沫バブル

 

 

世界三大バブルの最後は18世紀初頭のイギリスで起きた南海泡沫バブルをご存知でしょうか?

 

18世紀のヨーロッパでは各国がおのおのの権力拡大のため積極的に領土拡大政策を採用していました。

その結果、ヨーロッパ中に戦火が広がっていました。

ヨーロッパ全土を巻き込み、熾烈を極めたスペイン継承戦争、イギリスとフランスの間で植民地を奪い合ったアン女王戦争。

これらの戦争は後にジョン・ローという男によって、財政難をキッカケに国ごとミシシッピ計画へと導かれたフランスのみならず、同時にイギリスをも財政的に窮地に陥れていました。

そのような状況の中、破産者や自殺者を多数生み、後に「バブル」経済の語源となる大事件がイギリスで起きました。

 

その名も南海泡沫会社事件。

 

ここでその事件の発端となった二人の人物を紹介します。

 

南海泡沫会社事件を引き起こした人

イギリスで貴族と政治家オックスフォード伯爵、本名はロバート・ハーレーさん。

トーリー党という政党で党首をやっており、今回騒動の中心となる南海会社はイギリス政府があまりにお金がないので、ハーレーさんの発案で作られた会社です。

伯爵というのは貴族の身分の位のことで、5段階あるうちの3番目に偉いことを示す役職名です。

上から偉い順に、「公爵」、「侯爵」、「伯爵」、「子爵」、「男爵」というランクです。

 

ジョン・ブラントさん。負けん気が強く、とにかく金と権力が大好きな人でした。

そのためには手段を問わない男だともっぱら評判でした。

ハーレーさんに南海会社の社長になってくれと頼まれました。

 

17世紀のイギリス経済

しかし、まず南海会社ができる遡ること20年ほど前のイギリス経済の背景からご紹介します。

17世紀まで、ヨーロッパでは基本的に貨幣と言えば金貨や銀貨のことを指しました。

 

金や銀はどこの国や地域に行っても価値があるもので、大幅に暴落することもないので資産を変換する素材としてはうってつけでした。

ですが物理的に重たいので、そんなに常日頃持ち歩くこともできませんでした。

そこでイギリスの銀行家たちは、金銀を顧客から預かって、その預かり証を発行することを始めました。

その預かり証を持っていれば、好きな時に金銀と交換できます。

1690年代には預かり証の残高は、国内の通貨供給量を上回るようになりました。

これがイギリスにおける紙幣の始まりです。

 

1694年、財政難に苦しむイギリス政府が財源調達法という法案を成立させました。

これは、120万ポンドを8%の利子で政府に融資する代わりに、紙幣(捺印手形)の発行権がある株式会社の銀行の設立を認めるというものです。

設立された銀行はBOE(バンク・オブ・イングランド)と言いました。

現在のイングランド銀行(イギリスの中央銀行)です。

株式募集では1272人の投資家が集まり、彼らが金貨や銀貨で投資をし、それを基にしてBOEは紙幣を発行し、政府に融資されました。

BOEの株価はすぐに20%も上昇していきました。

このように1690年代のイギリスでは、一種の株式ブームが起きていましたが、結局財政難を克服できなかったイギリス政府により貨幣改鋳(コインの金銀率を減らす)がなされると、人々は株を売って良貨を買い求め、それをタンス預金してしいました。

一気に金の流れは動きを止め、株式ブームは終焉を迎えてしまいました。

 

南海会社設立

そんな背景があり、南海会社は1711年に作られました。

この南海会社は普通の会社と違って、変わった作られ方がされました。

それは国の借金をそのまま引き受けて、それを完済するために作られた会社というものです。

イギリス政府は、ヨーロッパとの領土拡大のために戦争をしまくっていたので、借金まみれでびっくりするくらいお金がありませんでした。

 

「国の危機的な財政状況を救う・・・・」

 

隣国との戦争も多く、お金がない政府を救うためハーレーさんというとっても偉い人が、「イギリス政府の借金を代わりのすべて返します!」と債務の肩代わりする南海会社を作り、法律文書に精通していたブラントさんを社長にしたのが始まりでした。

南海会社が国の債務の一部を引き受け、スペイン領西インド諸島との奴隷貿易の独占権を得てその収益で債務を弁済するというものでした。

今でいう国営事業を民営化して財政赤字を減らすというものです。

 

 

ブラントさん率いる南海会社は政府の借金を肩代わりにする代わりに、

 

  • 政府から引き受けた借金の5~6%を毎年受け取る権利
  • 当時ヨーロッパで大流行であった「南米との独占貿易権」

 

を政府から付与されていました。

 

しかし、独占貿易権はあっても、実際に貿易できていたわけでもなく、事業としてなんとか生き残っていくことで精一杯で、とてもじゃないけど国の借金を返していくことなんてできない状況でした。

 

*ここで、フランスのミシシッピ計画の時にも出てきた「南米大陸との独占貿易権」について補足をします。

当時、ブラジルを除く南米大陸の権利をめぐって、スペイン、イギリス、フランスで外交問題に発展していていました。

当時は奴隷貿易が盛んで、メキシコ、ペルーなどから金属が発掘されていることが発覚してから、財政難に苦しんでいたヨーロッパの強国はなんとかしてこの南米大陸の利権を確保しようと頑張っていました。

 

いつまでたっても南海会社の収益が「政府からもらう借金の利息だけ」だという状態だったので、議会からネチネチ言われて、そろそろブラント社長の首を切るか?という話まで出てきてしまっていました。そんなこんなで追いつめられたブラント社長は一発逆転を夢見て「国民に宝くじの販売」をやってみました。

 

その結果・・・・

 

これが大当たりしました!南海会社は凄い利益を出すことに成功しました!

 

※ちなみに宝くじは紀元前からギリシアで汚職を防ぐために、偉い人をクジで決めたのが起源です。

15世紀頃からヨーロッパを中心に、政府が財政難に陥るたびに宝くじの販売が行われてきました。

日本では江戸時代にお寺で販売されたのが初めてだと言われています。

宝くじは当時からどの国でも賛否両論があって、法律で禁止されていた国も多かったです。

 

その頃、フランスでは前回ご紹介したローさんによるミシシッピ計画が終焉を迎えていましたが、通貨であった金貨や銀貨を銀行券と交換してそれを正式なお金とし、フランス政府の借金を、ミシシッピ会社の株と国民と交換するというド派手なことを成功させたことで、ローさんとフランスはヨーロッパにおいて一躍注目の的になっていました。

 

ブラント社長は考えました。

 

ちょうど手元に宝くじを売って儲けたお金もある・・・

フランスでジョン・ローって言う人が、なんか凄いことやって景気が凄いことになっている・・・

フランスはライバル国だし自分だけ置いて行かれるのもまずい・・・

何よりこれだけ頑張ってきたんだから俺だってもっとお金がほしい!!

 

ということでブラント社長は、自分の手でローさんがフランスでやっていることを再現してやろうと決意しました。

 

国債の引き受け

1720年1月、ブラントさんはイギリス政府に国民に発行してしまった国債を南海会社にすべて引き受けてもらうという南海会社側の提案を議会で審議させることに成功しました。

 

そして、1720年1月21日、南海会社は市中にある3250万ポンドの国債を全て引き受け南海会社の株に変えると発表しました。

 

※ちなみに18世紀イギリスのGDPは約6300万ポンド。

当時職人さんの年収が約40ポンドです。この記事では当時の物価から推測とイメージしやすいように、1ポンド5万円と仮定と試算します。

 

南海会社が政府の借金をさらに引き受けることで政府の借金は実質ゼロになり、政府は南海会社に引き受けてもらった借金は返す必要はありません。

その代わりに政府から新たに肩代わりした借金の5%を毎年政府から金利として貰います。

 

同時に現在国にお金を貸している国債保有者に対して、国債と南海会社株の交換を持ちかけるという、フランスのローさんのミシシッピ計画と同じ「国債と株を交換して国の借金の帳消し」をしようと目論みました。

これは今でいうデッドエクイティスワップというもので、南海会社は何とその権利を中央銀行であるBOEとの入札競争に勝って獲得してしまいました。

 

一部の議員の中には、「国債100ポンド分に対して、南海会社株1枚と交換」という風に、国債→南海会社株に交換するレートを固定しようと主張する人がいました。

そうしないと、そもそも国債と南海会社株を交換できません。

 

ただブラント社長はどうしても南海の株を固定のレートではなく、好きなレートで国債と株を交換したいと考えていました。

 

株の額面とは例えば、「南海会社の額面100ポンドの株」を持つということは株を発行した時点での「南海会社が持つ資産の100ポンド分を保有する証明書」を持つということになります。

 

ブラント社長は、「南海会社株の額面と国債の額面で交換レートを固定」するのではなく、「南海会社株の時価と国債の額面」を交換レートにしたいと考えました。

そうすれば、仮に南海会社の株価が200ポンドに上がれば、「国債額面100ポンド分×2枚と交換」となり、南海会社1枚で多くの国債を手に入れることができ、政府から貰える金利も増えることになります。

額面100ポンドの南海会社株で200ポンドの国債が手に入るため、100ポンドの利益になり、これでさらに額面100ポンドの南海会社株の発行ができて、それをすぐに売れば200ポンドの利益が上がることになります。

200ポンド儲かったら、今度は額面100ポンドの南海会社株を2枚発行して・・・を繰り返せば、あっという間に億万長者になれる!とブラント社長は考えました。

 

一部の議員が、ブラント社長の考えた南海法が危険だということを見抜き、反対していたにも関わらず、結局政府は南海会社に自由に国債と株の交換レートを決定させる権利を与えてしまいました。

というのも、ブラント社長が大蔵大臣をはじめ、イギリスの王であるジョージ1世、国王の愛人、政府や議会の用心に南海会社の株価が上がるととっても儲かるストックオプションを賄賂として配りまくっていたからです。

 

こうしてブラント社長は、南海会社の株価が上がれば上がるほど、自分たちと株を持っている政府の偉い人が得する仕組みを見事作ることに成功しました。南海会社の国債購入について議会審議に入ると、

 

どこからともなく南米との貿易で金銀がたっぷり入ってくる・・・

メキシコ人がイギリスの綿織物をたっぷり買い付けに来ていて南海会社にすさまじい利益をもたらしている・・・

 

なんていう身も蓋もない噂が国民の間で飛び交うようになりました。

当時イギリスはスペインと交戦中であったため、南海会社が南米に利権を持つ可能性から期待値が高まり株価が急騰しました。

折しもミシシッピバブルが弾けてマネーが次なる投資先を求めていたところで、南海会社に資金がどんどん流入しました。

当時のイギリスは一種の株式ブームになっており、実体が何もなくても「株式会社」という名前がついていれば、株価が飛ぶように売れるという異常事態を起こしていました。

 

そんな盛り上がりの中行われていた議会審議の結果、なんと南海会社は額面で3150万ポンド分の株を発行と販売する許可を得てしまいました。

(一株額面100ポンドなので、合計で31万5000株まで発行可能)

 

注意してほしいのが、南海会社の本来の「事業」であった奴隷貿易はとっくに頓挫しているため、新株を発行しても収益源がありません。

そこで新株の発行価格を水増しして負債(引き受けた国の負債)との差額を利益に計上し、それで見せかけの利益を積み上げてさらに新株の発行価格を水増しすることにしたのです。

これであとは株価を上げて、上げて、上げまくるとブラント社長がついに本気を出しました。

 

「何が何でも株価を上げること上げることだけが唯一利益を上げる道」

「混乱すればするほど良い。自分たちが何をしているか人々に理解できないようにしなければならない。そうしておけば当社の計画に人々が乗ってくるようになる。計画の実行が当社の事業である。」

 

ブラントさんはこんなことを何千回も繰り返し言っていました。

政府も、株価が上がるととっても儲かるストックオプションで買収したし、「あとは煽って、煽って、煽りまくって株価を上げるだけ・・・」と考えるブラントさんを止めることができる人はもうイギリス国内にはいませんでした。

そのために手段は選ばず、南海会社の株価を上げるために、ローさんがミシシッピ計画でやったように

 

  • 株のローン販売
  • 株担保融資

 

も行いました。

 

南海会社が国債の額面を南海会社の株価で交換するという南海法が成立した1710年4月7日のわずか一週間後、4月14日に直後に全4回に渡る1回目の現金での南海会社株の売り出しが行われました。

額面100ポンドの南海会社株が時価1株300ポンドで、わずか1時間で20万ポンド分売れて完売になってしまいました。

ちなみに国債と南海会社株を交換するという話だったのに、なぜか先に現金で株が販売されました。

 

これはブラント社長が意図的に仕組んだことで、国債と株を交換する前に先に現金で売りに出すことで、投資家に南海会社株が持つ価値を一切計算させずとにかく買わせることを狙ってやったことでした。

 

(ちなみに、南海会社の収入は国債引受でもらえる政府からの金利収入のみで、この時点で引受はまだしていませんでした)

 

国債と株を交換するという話なのに、例えば国債100万円分と南海会社株がどれくらい交換できるのかが一切発表されていませんでした。

それにも関わらず、投資家は南海会社株に飛びつきました。

 

政府の偉い人は南海会社株のストックオプションで買収されていましたし、ジョージ王子ですら南海会社株のストックオプションの割当を受けていたくらいで、とにかく政府の偉い人から一般人も巻き込んで南海フィーバーは凄くなっていました。

 

2週間後の4月30日に行われた2回目の現金での株売り出しは、配当率を10%に引き上げると発表しました。

ちなみにブラント社長は、この配当を上げるという発表の直前に、配当が上がると儲かる金融商品を大量に買っていました。

(正確には南海会社株配当のコールオプション。簡単に言うと南海会社株の配当が上がるか下がるか?を予想する金融商品です)あまりに露骨な手口すぎて、今だったら完全に犯罪です。

 

ブラントさんの煽りの結果、5月末には550ポンド、6月の頭にはなんと890ポンドに株価が上がっていました。

ただ、この直後に640ポンドに急落。ブラントは焦って部下に南海会社株の買い支えを命令しました。

こんなことをしながら、6月15日に3回目の現金募集を実施し、発行価格はなんと1000ポンドで総額5000万ポンドが売り切れしました。

8月22日の4回目の株売り出しには、再び額面100円の南海会社株が1株1000ポンドで公募しました。

1億ポンド分の株が発行され即売り切れされました。

 

南海会社の株価が上がる

南海会社株を担保にお金を貸してあげる

配当をあげると「約束」だけしてその貸したお金で南海会社株を買ってもらう

南海会社の株価はうなぎのぼり

 

という具合に、「南海株価が上がるほどお金が借りやすくなる。

借りたお金でまた株を買う」という状態になってしまったため、南海会社の株価はたったの半年で10倍に跳ね上がり、国中で南海フィーバー状態になってしまいました。

南海会社株を担保に借りたお金でみんなが買っていたのは、実は南海会社株だけではありませんでした。

 

同時期に起きていたフランスのミシシッピ計画とは違いは、イギリスでは泡沫会社と呼ばれる、ワケの分からない実態のない会社が乱立と南海フィーバーに乗っかるという事態が起こりました。

ちなみにバブルの語源となったこの泡沫会社のシャボン玉っぷりは本当に凄かったからです。

 

あまりに意味不明でワケの分からない会社が作られ、新聞などで株の購入募集が凄まじいほど行われ、みんながそれを買ったので、後々、南海会社×泡沫会社のコラボレーションで「南海泡沫事件」と呼ばれるようになりました。

 

誰でも簡単に南海会社株を担保にお金を借りることができたので、そのお金を狙ってわけのわからない実体のないペーパーカンパニーが乱立し、新聞広告で毎日株を買う人を募集するのが大流行りしていました。

あまりに株価が上がるのと株価が上がった分だけお金が借りられるので、みんな南海会社株にだけではなく、泡沫会社にも飛びつきました。

 

1710年の1年間に190社が設立と株式募集がされましたが、1年間で生き残ったのはたったの4社で、ほとんどが実績も実体もない会社でした。

 

※ちなみに、泡沫会社というのはある特定の「泡沫会社」という名前の会社があったわけではなく、当時乱立していた「泡のようで実体のないペーパーカンパニー」が乱立しており、それら全体を指して泡沫会社と呼んでいました。

 

バブルの語源

「バブル」という言葉の語源となったのが、この泡沫会社の乱立です。

泡沫会社の乱立はあまりに凄まじく、株を買ってはそのまま逃げられて一文無しになる人が後を絶ちませんでした。

特に悪質で有名な泡沫会社に夢中で投資する人々を風刺した「泡沫会社トランプ」なんていうのも発売されました。

その泡沫会社トランプの一部の会社をご紹介します。

 

*ピュックル機械会社

業務内容:丸や四角の砲弾や砲丸を発射させ、戦争に大きな革命を起こそうという会社

 

*イングランドの鋼と真鍮の会社

業務内容:鋼と真鍮を使って何かをする会社

 

*「大いに利益になるのだが、それが何であるか誰も知らない」会社

業務内容:???

 

その他、「髪の取引をする会社」、「水銀を純金属へ変換する会社」、「永久運動を開発する会社」、「海水から金を取得する会社」、「こどもの未来を保証する会社」、「海賊から襲撃を受けない船を建造する会社」・・・etcなどなど、夢と希望に満ちた会社がたくさんありました。

 

こんな感じで会社名と絵柄、それに風刺コメントの書かれた泡沫トランプは大人気でした。ペーパーカンパニーである南海会社だけではなく、南海会社の株価が上がることで、こんな会社でも能天気な国民は喜んで全財産とさらにお金を借りて投資をしていきました。

そんなこんなで、イギリスでは一般国民だけではなく、貧民層を含むすべての国民が南海会社の株に夢中になっていきました。

 

国王ジョージ一世、皇太子、公爵から男爵まで100人以上の貴族や300人を超える下院議員3回目の南海会社株の売り出しで株を買っていました。

株価が上がるにつれて、不動産ブームが起きて地価が跳ね上がっていきました。

とにかくイギリス中が長年の憧れだった家や馬車を買ったりと、とにかく贅沢をしまくりました。セントジェームス宮殿では国王の誕生にパーティで100ケースを超える赤ワインが消費されて、5000ポンド(約2500万円)の宝石を散りばめたドレスを着て現れる侯爵夫人もいるほど贅沢していました。

 

株の売買をするエクスチェンジ通りという場所周辺では、居酒屋や喫茶店、更には食堂に至るまで連日お客さんでいっぱいで、信じられないような騒ぎになっていました。

しかし、ブラント社長は泡沫会社があまりに多くなってきたので、とっても焦っていました。なにせ泡沫会社の数が増えていくと、自分の会社の株を買ってくれる人がそれだけ減るからです。

 

「なんとしても、この大フィーバー確変状態を独り占めしたい!!!」

 

6月9日、そんな熱い想いから、ブラントはすでに南海会社株で買収済みの政府の偉い人たちに

 

  • 会社の設立の議会による認可の義務付け
  • 既存の会社の本業以外の事業多角化の禁止

 

を義務付けた「泡沫会社法」を作ることを迫りました。

 

これでいろいろな事業をして業績を上げているライバル会社は困ることになるし、訳の分からないペーパーカンパニーを一掃して、南海会社だけが人気が出るはずだと考えたのです。

 

政府も、国民から泡沫会社の詐欺に関して文句の声が上がっていたことに加え、政府内の偉い人がみんな南海会社株を持っていたのでこれに反対する人はほとんどいませんでした。

 

最初は、ブラント社長の思い通りには行かず、泡沫会社の株価は上がり続けました。

それを見て怒ったブラント社長は法務大臣に、実際に事業の多角化をしていた泡沫会社を法で裁くようにして貰いました。

同時に、ブラント社長は南海会社株のその年の配当を10%→30%に引き上げ、来年以降は配当をなんと年5割を保証すると発表しました。

 

しかしこれをきっかけに・・・なぜか南海会社株は大暴落してしまいました。

 

つい6月までは、(たったの6ヶ月間で)8倍にもなった1050ポンドだった株価は、8月にはあっという間に850ポンドに下落してしまいました。

 



さらに政府が、事業を多角化した泡沫会社を実際に訴えるという令状が発表されると、株式市場は大パニックになりました。

 

南海会社だけではなく、泡沫会社の株価も軒並み暴落・・・

不動産事業に事業拡大をしていた水道会社は305ポンド→30ポンドに・・・

当時の保険会社大手2社の株価は75%大暴落・・・・

 

南海会社株を担保に借りて泡沫会社の株を買っていた人がとっても多かったので、泡沫会社の株価が下がるとその損失の穴埋めのために、南海会社の株も売らざるを得なくなって、大パニックになりました。

 

ブラント社長が、南海会社の株価を上げるためにしたことが、皮肉にも南海会社の株価を下げることになってしまいました。

5割配当保証という、南海会社の大型配当アップの発表も何の効果もなく、どんどん株価は下がっていきました。

 

さらにブラント社長が株を売り抜けたとの噂が飛び交い、9月中旬になると800ポンドまで下がっていた南海会社株価は400ポンドまで下落しました。

南海会社株を担保にした融資の担保評価として600ポンドを基準にしていた銀行が多かったので、株を担保に融資をしていた銀行がドンドン破綻し始めました。

その結果9月末に南海会社株は200ポンドを割り込む水準に落ち込み、たったの1カ月で75%も下落してしまいました。

 

この頃には、南海会社の経営陣も株価を維持することを完全に諦めて、持っていた南海会社株を売却し始めました。

当時BOEは政府から公的信用を維持するため南海会社の債務を肩代わりするように圧力を受けていました。

しかし、南海会社の債務を肩代わりすると自分たちが潰れてしまうのでこれを拒否しました。

これをきっかけに国中のいたるところで信用がなくなり、お金を貸してくれる人が現れなくなって、金利が20%を超えるといった事態まで生じました。

 

ここで、当時の南海泡沫バブルの知る人達の言葉をご紹介します。

 

「正直言って、連中がもう少し長く、ペテンを続けていられると思った。・・・いずれ破綻が来るとは予想していたが、考えていたより2ヶ月早かった」

※当時の下院議員ジェームズ・ポープの証言

 

「ほとんどの人がいつかは破綻すると予想していましたが、だれも、それに備えていませんでした。ちょうど死と同じで、夜盗のように忍び寄って来るとは、だれも考えていませんでした。」

※アレグサンダー・ポープ主教への手紙

 

「幽霊のように全員黒死病にかかっているかのようだった。人々がここまで意気消沈しているように見えたことはなかったからだ。私は死ぬまで彼らの顔を忘れないだろう。」

1720年10月1日アップルジャーナル紙

 

この南海会社株の暴落で損失や借金の苦で自殺する人も多く、破産者が大量発生し、イギリス中の人がどん底に落ちてしまいました。

そんな中、ブラント社長をはじめとする南海会社の経営陣は(通算合計4回にわたって行われた)株価がピークの4回目の南海会社株売り出しの時に、こっそり株を売り始めて自分たちだけは莫大な利益を確定していました。

 

ここで、この泡沫会社や南海会社の株価暴落で大損をした当時の有名人を一部紹介します。

 

南海バブルでとっても損をして凹んだ有名人達

BOE取締役 ジェスタスさん

214万7000ポンドの負債を抱え破産(約1073.5億円)

 

シャンドス侯爵

売りどきを逃し、70万ボンドの含み益を失う(約350億円)

 

天才物理学者 アイザック・ニュートン先生

ある日、ニュートン先生の耳に南海会社の騒動が耳に届きました。

ニュートン先生は「これはおかしい。さしたる根拠もない会社の株がこんなに値上がりするのは解せない」と考え、投機には参加しませんでした。

しかし、そんなニュートン先生でさえ、周りの友人知人が大儲けしているのを見て、とうとう株を買ってしまったのです。

株価が上がり切らないうちに売却して利益を出した後、株価頂点で買い戻してしまった結果、2万ポンドの損失(約10億円)

※これは、当時ニュートン先生の仕事であった造幣局監事の基本給2000ポンドに換算すると、約10年分の金額。

『天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった』との名言を残します。

 

「金持ちになる方法」という記事を、雑誌に執筆した謎の男性ユースタスさん

金額は不明だが、巨額の財産を失い自殺

 

南海会社の株価が暴落した時のイギリス国民の怒りは、イギリスの歴史上見たことがないほど激しかったのです。

特に南海会社の経営陣への怒りは凄まじく、国民を煽って株価を上げる裏で、自分たちだけは暴落前に株を売っていっぱい儲かっていたことに対してみんな怒り狂っていました。

 

当然、南海会社株のストックオプションを貰ってひっそり儲けていた政治家の人たちにも怒りの矛先は向きました。

国民はウェストミンスターという王様が住む宮殿や、イングランド国教の一番大きな教会ところに集まって暴徒と化し、南海経営陣や政治家が得た利益を没収するよう暴れ回りました。

 

議会では不正や腐敗、賄賂について激しく議論され、取引の実態を調査するための秘密委員会が組織されました。

南海会社の帳簿を調べてみると、経営陣が南海法設立のために政治家に贈った賄賂は、架空の南海会社株を含め125万4500ポンドにものぼる額でした。

 

その結果、南海の取締役でもあった下院議員は除名、大蔵大臣をはじめとする何人もの南海会社取締役が、泣く子も黙る刑務所のロンドン塔に送られました。

さらに南海会社の取締役が南海会社株で儲けた利益を没収する南海被害者法も可決しました。

 

この処分の結果、ブラント社長は資産18万3000ポンド(約91.5億円)のうち、5000ポンド(2.5億円)を残し没収されました。

他にも経営陣なども含め、合計200万ポンド(100億円)以上が政府によって没収されました。

 

1721年、イギリスはバブル防止法を制定、企業に新たに株式公開することを禁止しました。また「株取引の悪名高い慣行を将来防止することによって信用の確立を強化する法案」という、とっても長い法案も議員から提出されました。

この時は可決されなかったもののこの15年後、イギリス議会はこの法案を基に「空売り、オプションと先物取引を禁止するサー・ジョン・バーナード法」として可決しました。

この法律は19世紀半ばまで効力を発揮しました。

議会での南海会社の責任追及をきっかけに、

 

「株式会社が一般国民に株を売って資金調達する場合は、公正な第三者による会計記録の評価が不可欠である」

 

と認知されるようになり、間も無く、公認会計士制度及び会計監査制度が誕生することになりました。

イギリスはこの結果、株式に対する偏見が生まれ、泡沫会社禁止法によって会社制度の発達が遅れる原因となりますが、銀行は信用を失わなかったため銀行預金残高は増え続け、資本蓄積がされていきます。

 

あまりに多くの人々が南海会社や泡沫会社が作り出した「黄金の夢」に陶酔、イギリス中が傷ついたこの「南海泡沫事件」をきっかけに、後に世界中の保守的な人間が、人々が同じ過ちを犯しそうになるたびに、それを「バブル」と呼び、警鐘を鳴らすようになりました。